徒歩約15分
天下一の天守閣を誇る大阪城へ
大阪城(築城当時は大坂城)がある一帯は元々、古墳時代の古墳があったと言われています。かつて、この地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れていて天然の要害で、この淀川を上っていくと京都に繋がる交通の要衝でした。戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺がありましたが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失。
織田信長もこの地を気に入っており、ゆくゆくは城を築く心づもりがあったと『信長公記』には記されていますが、1582年(天正10 年)6月2日、京都の本能寺で斃れました。
その後、信長の後継者を決めた清洲会議で池田恒興に与えられますが、恒興がその後すぐ美濃へ国替えとなったため、豊臣秀吉の所領となります。 1583年(天正11年)から秀吉によって築城が開始され、豊臣家の本拠地として機能していきます。城下には、多くの戦国武将たちの屋敷も建てられました。
- 大阪城
- 住所/大阪府大阪市中央区大阪城1-1
電話/06-6941-3044
時間/9:00~17:00(入館は16:30まで)
定休日/12月28日~1月1日
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍が敗れます。結果のちに征夷大将軍となって江戸幕府を開く徳川家康により、東軍への恩賞という形で西軍方の所領が分配されます。
豊臣家は220万石の大大名から摂河泉65万7千400石の一大名に転落しますが、豊臣秀頼は依然として豪華絢爛な大坂城を居城としていた。しかし、徳川幕府と豊臣家の関係は徐々に悪化し、1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣が勃発。その講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまいました。
秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡します。
その後、大坂城下は復興され、徳川家の天領(直轄地)とされました。城下復興に続いて、1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する城の再建工事が始まります。西国の大名を中心に、多くの人出が動員されました。
その後、明治時代になると政府は大阪城の広大な敷地の一部を陸軍用地に転用し、昭和初期にかけて徐々に復元もされてきていましたが太平洋戦争では空襲により甚大な被害をこうむります。
戦後、大阪城の復興と公園の整備が行われ現在では、観光客が多く訪れる大阪の名所となりました。観光客だけでなく、春は梅や桜、秋は紅葉をはじめ城の周囲をランナーが走るなど、市民にとっても憩いの場として親しまれています。