真田信之真田家を守った長男

真田信之

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人物記
名前
真田信之(1566年〜1658年)
出生地
長野県
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上田城

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沼田城

沼田城

松代城

松代城

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室町時代後期、戦国時代とも呼ばれた戦乱の世は徳川家によって終焉します。
関ケ原の戦いで勝った徳川家康は、江戸幕府を開きました。そして豊臣秀吉が残した豊臣家を大坂城の戦いで倒します。この大坂城の戦いで家康を窮地に追い込んだのは真田信繁(幸村)でした。その信繁の兄、真田信之は徳川家に尽くし、明治まで続く真田家の基礎を築きました。今回はそんな真田信之をご説明します。

出生から元服へ

真田信之は、永禄9年(1566年)真田昌幸の長男として生まれました。
真田家は信濃国小県郡(現在の長野県小県郡)の海野氏より分かれて興った家系です。信之の祖父、真田幸隆の頃から甲斐(現在の山梨県)と信濃(現在の長野県)を領していた武田信玄に仕えます。

父の昌幸は幸隆の三男であったため、武藤家に養子に出ていました。ところが天正3年(1575年)、信玄の子、武田勝頼と織田信長が戦った長篠の戦いにより、仕えていた武田家が惨敗、昌幸の兄たちは戦死したことから真田姓に復姓して家を継ぎました。

こうして真田家に復姓した真田昌幸の長男として、信之は生まれました。信之は幼い時代、武田家の人質として過ごします。
天正7年(1579年)に武田勝頼の嫡男・信勝の元服と同時に元服を許され、武田信玄の1字を賜って信幸と名乗ったとされました。

武田家滅亡後

天正10年(1582年)3月、近畿を中心に覇権を推し進めていた織田信長は、信濃国、甲斐国の武田征伐を行います。真田昌幸が仕えていた武田勝頼は天目山で自害し、武田家は滅ぼされました。

当時、武田家の人質であった真田信之は、上田城にいる父昌幸の下へと逃れます。
ところが武田家を亡ぼした織田信長もまた、同じ年に本能寺において家臣の明智光秀に討たれて自害します。
この時、信濃国、甲斐国は織田家の領地でした。ところが織田信長の死により信濃国、甲斐国で織田家に対する反乱がおこります(天正壬午の乱)。
その乱れた信濃国、甲斐国に東から侵攻してきたのが関東の北条氏直でした。真田家は、この北条家に対して臣従の構えを見せます。

同じ頃、越後国(現在の新潟県)を領する上杉景勝も北から信濃国へ進出してきます。
北条家に臣従する姿勢を見せていた真田家は、信之が中心となり上杉領の海津城を撹乱します。
ところが南から東海道を領する徳川家康も信濃国、甲斐国へ侵攻してきます。多くの旧武田家臣が徳川家に付き、叔父の真田信尹らの誘いもあった事で、沼田城を北条方から奪還し、真田家も徳川家について北条氏と敵対するようになります。
信之は手勢800騎を率い、北条家の兵5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げたといいます。
依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田の地域から駆逐することに成功しました。

天正12年(1584)、真田家は信濃国小県郡も策略により支配下に置きます。こうして、現在の長野県の東部(東信地方)から群馬県北部にかけて領するようになりました。

徳川家との確執と豊臣秀吉

真田家は武田家滅亡後、徳川家に従います。
ところが天正13年(1585)、徳川家と北条家とが同盟を結ぶと、徳川家は真田家の領地の一部を北条家に譲る事にしました。真田昌幸は徳川家と断交し、上杉氏に臣従します。
これが原因により昌幸は徳川家と戦う事になります(第一次上田合戦)。信之は支城の戸石城に兵300余名で入ると、ゲリラ戦を用いて徳川家をかく乱しました。

その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立します。真田家は徳川家の与力大名となりました。
信之の才能を高く評価した家康は、重臣の本多忠勝の娘・小松姫を家康の養女とした上で、婚姻を結びました。

こうして真田家の中でも信之は、徳川家に近い存在となります。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の北条家討伐が行われると、戦後に沼田領が真田家の所領として確定します。信之は沼田城主となりました。

文禄3年(1594年)には従五位下伊豆守に叙任され、その後、従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任するようになりました。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなります。秀吉の死後、朝廷で最高位にある徳川家康が主導権を握り始めました。

慶長5年(1600年)、失脚していた五奉行の石田三成が徳川家康に対して挙兵します(関ケ原の戦い)。父真田昌幸と弟の信繁(真田幸村)は三成らの西軍に付きました。信繁は石田三成の軍に参加した大谷吉嗣の娘を妻にしている為です。徳川家の重臣本多忠勝の娘で、家康の養女になった後に嫁いできた小松姫を妻とする信之は、家康らの軍に参加することを決めます。

真田家は父と弟が西軍に、兄が東軍につくことになりました。信之は徳川家の主力を率いていた徳川秀忠軍に属して上田城攻めに参加します(第二次上田合戦)。戦いの前に本多忠勝の息子で信之の義弟(妻小松姫の弟)である本多忠政と信之は父昌幸の説得に赴きましたが、結局失敗に終わったとされます。

信幸は、信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられましたが、真田兵同士の消耗を避けるため開城請求の使者を派遣、弟信繁も信之の意を汲み開城に応じます。信之は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退しました。
徳川家康と石田三成との戦いは、徳川家康が勝利しました。しかし、徳川秀忠の本隊は真田昌幸の足止めにあい、家康の使者の遅れもあって、関ヶ原の戦いには遅参した為、本戦には参加できませんでした。

戦いに勝った信之は、父昌幸の所領を受け、上田城を受け継ぎます。反対に戦いに負けた父昌幸と弟信繁に対しては厳しい処置が待っていました。信之は父と弟の助命嘆願を求め、義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊国九度山へ流罪となりました。
その後、信之は父が亡くなった折に葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出ましたが、許されませんでした。

沼田藩

真田信之は、関ヶ原の戦いの後、真田昌幸の旧領に加え3万石を加増されて上田藩主となりました。徳川秀忠が攻め、昌幸が守り抜いた上田城は破却を命じられます。信之は引き続き沼田城を本拠とします。
信之が上田領を継いだ頃、戦いの戦禍や相次いだ浅間山噴火で領内は荒廃しており、その後も気候不順など天災が相次ぎました。信之は上田城の町を整備し、堰や用水を整え、苦しむ領民に対して年貢の減免を行うなど、様々な政策を行って領内の再建に苦闘します。

慶長19年(1614年)から始まった徳川家と豊臣家の戦い、大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣しました。元和8年(1622)、信濃国松代に加増移封されます。
明暦元年(1656)、長男の真田信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が死去した為、次男の信政に信濃国松代藩の家督を譲って隠居します。しかし万治元年(1658)、次男の信政も死去しました。

ここから真田家は後継者争いが起こります。亡くなった次男の信政の子、幸道が藩を継いだことに対して、長男の血統である信利が次男の血統である幸道の家督相続に異議を唱え幕府に訴える事態となりました。幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となります。最終的には次男の幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執ります。長安の系統である信利は沼田藩として独立しました。

こうして後継者問題が一段落すると真田信之は万治元年10月に死去しました。享年93。
墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されています。また、真田家の菩提寺真田山長国寺には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられています。

真田信之の人物像

真田信之は、徳川四天王の一人、本多忠勝の娘である小松姫を娶り、徳川家に尽くしました。反対に徳川家と戦った上田合戦や大坂の陣を通して、父や弟である真田昌幸、真田信繁(真田幸村)は徳川家に反抗します。真田家の中でも度々、昌幸や信繁の側に参加した者もいた為、徳川家から睨まれ、より献身的に幕府に尽くしました。

こうして江戸時代に入り藩政を司った信之は93歳と長命でした。しかも死の直前まで藩主や後見役として真田家の為に働きます。そんな信之に徳川家康の子で紀州徳川家の藩祖徳川頼宣は信之のことを尊敬しており、自邸に招いては武辺話を熱心に聞いたといわれます。後に信之は頼宣の子の具足親になったとされる逸話が残っている程、信之と紀州徳川家とは親密でした。

そして信之が死去した際は、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したといわれます。信之の近くに仕えていた家臣から領民である百姓までもが大変悲しみ、百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされました。こうして家臣や領民にも慕われる名君であったと伝えられています。

信之の辞世の句は「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」です。甲斐の武田勝頼に仕え、織田家や上杉家、北条家を周囲に囲まれて戦乱の世を過ごし、豊臣政権を経て、徳川家を長とした江戸時代に入ると平和な時代の中で領国運営に苦労した、そんな移り変わりの激しい人生を真田信之は歩みました。

真田信之と所縁の地

真田家と沼田城
沼田城は、上野国利根郡(現在の群馬県沼田市)にありました。
天正8年(1580)、武田家に仕えていた真田昌幸が関東の北条氏に属していた沼田城を調略で落とします。その後、昌幸の手から一旦離れますが、天正18年(1590)北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされると、真田信之の支配となり、江戸時代に入っても真田領とされました。
延宝9年(1681)、幕府の天領となり真田家から離れました。
沼田城は1976年、沼田市の指定史跡とされています。 現存建物として城門が群馬県川場村に1棟、川場村以外に3棟ほどが移築されています。 1634年に真田信吉が鋳造させた「城鐘」が現存し、群馬県指定重要文化財に指定され、2019年にテラス沼田内に開館した沼田歴史資料館で展示されています。
真田家と松代藩
松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡(現在の長野県長野市松代町松代)にありました。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領しています。
元和8年(1622)、信濃国上田藩より真田信之が13万石で入封した後、幕末までこの地は真田家の所領として続きます。
現在では一部の当時の建物が移築され、松代城址公園となりました。その公園に2004年太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されます。2006年に日本100名城に選定されました。
また1964年、本丸を中心とした城址の一部が長野県の史跡に指定されています。1981年(昭和56年)本丸を中心とした城址の一部と新御殿が国の史跡に指定されました。
長国寺 真田信之の墓
松代市の長国寺は、真田の里にある長谷寺の住職を開山として、真田信之が上田城から松代城に移った1622年に建立された寺院となり、真田家の菩提寺になっている所です。
真田信之の霊屋、真田幸村・真田大助の供養碑、歴代松代藩主の墓所、真田幸隆・真田昌幸・真田信綱の供養碑など、真田家所縁の場所となっています。
真田信之と小松姫像
真田信之と小松姫の像は沼田公園内、旧本丸跡あたりにあります。沼田公園は、真田信之が城主であった沼田城のあったところ。真田家は沼田とも縁があります。

真田家と上田城

上田城(うえだじょう)は長野県上田市にある日本の城です。真田信之の父、真田昌幸が天正11年(1583)築城した平城でした。なお、現在残っている櫓などは江戸時代初期の寛永年間に、仙谷家により再建されたものです。

関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠を足止めする戦いの中心地となり、翌慶長6年(1601)勝った徳川家により破却されました。
上田の所領を引き継いだ信之は、上田城が破却された為、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて藩庁とし、上野国沼田城を本城とすることで統治を行います。この頃から城下町の整備も行われるようになりました。

真田信之は、元和8年(1622)に信濃国松代へ転封されます。真田家が転封された上田には、小諸を領していた仙石家が転封されます。転封してきた仙石家は、破却された上田城の再建を幕府に申請しました。仙石家によって再建された上田城は、本丸には櫓7棟を建造、櫓門は2棟を建てられ、それらを繋ぐ塀が築かれました。現在残っている本丸の3棟の櫓など建物の外壁は、煤と柿渋の特性である防水した板を用いた為、黒い外観となっています。

明治になると、天守閣などは破却され、建築物も城外へと移築が行われました。城内に残ったのは石垣と西側の櫓が1棟残るのみでした。昭和に入ると、移築され城外にあった本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成に櫓門や塀などが木造復元されています。

現在の上田城は、上田城跡を中核とした上田城跡公園となっており、樹齢100年といわれるケヤキ並木をはじめ、約千本の桜など市民の憩いの場所となっています。
本丸跡にある真田神社は、上田合戦で「落ちなかった」城であることにあやかり、受験生の必勝祈願のスポットとして賑わっています。

真田信之の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1566年 永禄9年 0歳 武田家臣・真田昌幸の長男として生まれる
1582年 天正10年 16歳 武田家滅亡後、父とともに徳川家康に接近
1585年 天正13年 19歳 第一次上田合戦で父・昌幸を補佐
1590年 天正18年 24歳 豊臣秀吉の小田原征伐に従軍
1600年 慶長5年 34歳 関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)に属する
1600年 慶長5年 34歳 西軍についた父・昌幸と弟・信繁(幸村)が敗北し、高野山へ配流
1601年 慶長6年 35歳 上田藩主となる
1622年 元和8年 56歳 信濃松代へ移封され、松代藩主となる
1658年 万治元年 92歳 死去(戦国を生き延びた大名として長命を全う)
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。