福知山城京都府福知山市

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福知山城DATA
別称 横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
築城 1579年
住所 京都府福知山市字内記1
電話番号 0773-23-9564
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週火曜日(祝日の場合は翌日)/12月28日~31日/1月4日~6日
登閣料 大人330円/小人110円
福知山城への交通アクセス
JR・京都丹後鉄道「福知山」駅から徒歩約15分。

HISTORY 明智光秀が築いた福知山城

福知山城は、京都府福知山市にあった平山城です。明智光秀が織田信長の命によって築き、江戸時代は福山藩の藩庁として機能しました。 日本100名城の一つにも数えられています。 そんな福知山城の歴史を紐解いていきましょう。

室町時代~福知山城築城前まで
福知山城の前身は、福知山地方の国人塩見頼勝が八幡山の脇に築いた掻上城(かきあげじょう)といわれています。 塩見頼勝は、後に姓を横山と改めたため、城の名前も横山城と変更されました。 天正3年(1575年)織田信長より丹波攻略を命じられた明智光秀は、4年近くの年月をかけてこれを平定します。 明智光秀の丹波平定は非常にドラマチックなので、興味ある方は調べてみると面白いです。 丹波平定の後、明智光秀は横山城を福知山城に改め、現在のような近世城郭に修築しました。 なお、横山城というと滋賀県長浜市にも織田信長が浅井氏より奪い、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に城番を任せた城が有名ですが、当時、日本には同名の城が少なくありませんでした。
明智光秀の城改修から江戸時代末期まで
横山城を福知山城と改め、近代城郭に改修した明智光秀は城代に藤木権兵衛と明智秀満を置きます。 明智秀満は明智光秀の娘婿とも従兄弟ともいわれていますが、正確な関係は今も謎です。 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こります。 明智秀満は明智光秀に味方して先陣を切り武勲を立てましたが、羽柴秀吉の軍勢がすぐに福知山城に攻め入り、代わりに城番をしていた明智秀満の父親を捉え、同年の7月に粟田城で処刑してしまいます。 また、明智秀満は滋賀県にある「坂本城」まで逃げ延び、しばらく秀吉の軍と籠城戦を行なっていましたが、この城で妻子と自分の妻を殺害した後自らも切腹して自害しました。 明智光秀は、本能寺の変の後でこの坂本城に向かう途中、殺害されています。 明智光秀が福知山城を近代城郭に改修し、城主になってから3年目のことでした。
明智光秀が亡くなった後、福知山城は織田信長の四男で羽柴秀吉の養子になった羽柴秀勝が城主になりますが、18歳の若さで亡くなってしまいます。 その後、城主となった杉原家次は、当時としては高齢の50代で、城主になってそれほど時間がたたないうちに病死しました。 その後、野木重勝が城主となります。 野木重勝は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に味方し、細川幽斎が立てこもる田辺城を攻めています。 このとき、細川幽斎は和議を申し入れて野木勝重はこれを承知しました。しかし、関ヶ原の戦いで勝敗がはっきりすると細川幽斎の子ども、細川忠興が徳川家康の許しを得て福知山城を攻めて野木勝重を捕え、亀山城下の寿仙院で切腹させました、
関ヶ原の戦い後、福知山城は有馬豊氏が城主となります。 有馬豊氏は、明智光秀が改修した福知山城をさらに改修して現在に残る城郭の形とし、城下町も整備します。6万石で入城した有馬豊氏は後に増石されて8万石となりました。
元和6年(1620年)有馬豊氏が久留米藩に移封されると、福知山の城主は、岡部長盛となりますが、やはり3年後に移封、さらにその後に城主となった稲葉紀通は、24年間城主の座についていましたが、宮津藩の京極高広と争いとなり、蟄居となりました。 その後、刈谷藩から松平忠房が移封されて城主となりますが、20年後に島原藩に移っています。 このように、数年~20年おきに福知山城は治める家がめまぐるしく変わりましたが、寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が移封され、以来朽木家が明治維新まで福知山城の城主を務めました。
明治以降の福知山城
明治4年(1871年)に廃藩置県となると、福知山城は廃城となります。 明治6年(1873年)には城の建物が解体されたり払い下げが行なわれたりして、二の丸台地は埋め立てられました。 なお、城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門になったと伝わっており、現在福知山市の重要資料に指定されています。
二ノ丸の登城路付近にあった銅門番所は、大正時代に天守台に移築されました。 1973年(昭和48年)に天守再興計画が持ち上がりますが、オイルショックによって財源が確保できずに一端は断念されます。 しかし、その後1984年(昭和59年)に改めて再興計画が持ち上がり、瓦1枚分、3,000円の寄付を集う「瓦1枚運動」などを経て1986年(昭和61年)には大天守が再建されました。
2017年(平成29年)には、続日本の百名城に指定されています。
2020年(令和2年)には、幕末~明治初期に撮影されたとみられる福知山城の天守の写真が発見され、話題となりました。
現在は、福知山市の観光のシンボルとして毎年たくさんの方が訪れています。
まとめ
福知山城は、石垣のみが当時のままで天守閣は再建、内部は資料館になっています。 近年は明智光秀が再評価されるようになり、福知山市では明智光秀をつかった町おこしも盛んです。

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明智光秀

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福知山藩
福知山藩DATA
藩庁 福知山城
旧地域 丹波国天田郡
石高 6万石
譜代・外様 外様・譜代
主な藩主 有馬家、岡部家、稲葉家、松平家、朽木家
推定人口 3万1000人(明治元年)

福知山城、明智光秀が築いた臥龍城

京都府福知山市にある「福知山城」は明智光秀が築いた城として有名です。福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端にあることから「臥龍城」の名でも知られています。昭和61年(1986年)に3層3階の大天守と2層2階の小天守が復元されており、2017年には「続日本100名城」に選ばれました。

福知山城
福知山城の歴史
福知山城は16世紀前半、地元の国人・塩見頼勝が「掻上城」を築いたのが始まりです。のちに「横山城」となった城は天正7年(1579年)ころ、織田信長の命で丹波を平定した明智光秀により「福知山城」と改められました。このとき光秀は城を拠点として整備し、近世城郭へと修築・拡大しました。その後、福知山城の城代として明智秀満らを置きます。
天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長を討った光秀でしたが、山崎の戦いで敗北。光秀が亡くなったのちは羽柴秀勝が城主となり、その後杉原家次や小野木重勝(重次)が入ります。重勝は関ヶ原の戦いで西軍につき、敗北したのち自刃しました。
関ヶ原の戦いの功績で丹波福知山6万石に入ったのが有馬豊氏で、福知山藩を立藩。このころ城は近世城郭として改修され、現在の形になったとされています。豊氏が転封した後は岡部長盛・稲葉紀道・松平忠房と城主が次々と変わります。そして寛文9年(1669年)に常陸国土浦藩(茨城県土浦市)から朽木稙昌が入城。以降は13代200年にわたり、福知山藩を治めました。
明治維新後は廃城令により城は解体されましたが、天守付近の石垣と銅門番所は残り、城門などは移築されました。昭和に入ってからは天守の再建の機運が高まり、昭和59年(1984年)に再建に向けた会が発足。瓦一枚・3000円を一口として寄付を募る「瓦一枚運動」などで資金を調達し、なんと約8500の個人・団体から約5億円が集まったそうです。昭和60年(1985年)に小天守と続櫓が、昭和61年(1986年)に大天守が完成しています。
福知山城の見どころ①再建された大天守・小天守
福知山城の大天守・小天守は有馬豊氏から松平忠房のころの絵図史料を参考に再建されました。大天守は3層4階の望楼型で、続櫓で2層2階の小天守が連結されています。
福知山城の特徴はどの方角から見ても形が違うこと。左右非対称な独特の形で、天守についた窓もバラバラです。このため「本当にこんな天守があったの…?」と思われがちですが、2000年に明治時代のものと思しき古写真が発見され、再現された天守がほとんど正確なものだったことが判明しています。
大天守と小天守の2階の隅には、通常の城では1階にある石落としが設置されています。一見外からはわからないので石垣を登ろうとしたら石が降ってくるという、少し意地悪な仕掛けです。
天守閣の内部は郷土資料館となっており、明智光秀や福知山城、朽木氏にまつわる展示が見学できます。なかでも本能寺の変の約1年前にあたる天正9年(1581年)6月2日に定められたという「明智光秀家中軍法」の複製は必見です。4階は展望室になっており、福知山の城下町が一望できます。光秀が由良川の氾濫を抑えるために築いたと伝わる明智藪(蛇ケ端御藪)も見えますよ。
福知山城の見どころ1 福知山城の見どころ2 福知山城の見どころ3
福知山城の見どころ②転用石だらけの石垣
天守台から本丸にかけて残る石垣は明智光秀時代に作られた野面積みのものです。再建時の調査によれば、五輪塔や宝篋印塔、石仏や石臼などの転用石はなんと約500個もあるのだとか。天守台にも転用石の姿を見ることができます。また、銅門番所の横は発掘調査の際見つかった転用石がずらりと並んでいます。
光秀が転用石を使用した理由としては、大量の石材が付近になく、さらに築城に時間的余裕がなかったので合理的に周辺の寺院から押収した、旧勢力の象徴である寺院への支配を示すためだった、城を守護するためだった、などさまざまな説が唱えられています。
福知山城の見どころ4 福知山城の見どころ5 福知山城の見どころ6
福知山城の見どころ③銅門番所
銅門番所は福知山城で唯一現存する江戸時代の建物です。もともと二の丸の登城口付近にある銅門脇の番所でしたが、大正5年(1916年)に小天守台に移築され、昭和60年(1985年)の天守閣の再建に伴い現在の本丸跡に再移築されました。
ちなみに銅門は明治31年(1898年)に福知山市寺町にある正眼寺の山門として移築されています。
福知山城の見どころ7 福知山城の見どころ8 福知山城の見どころ9
福知山城の見どころ④豊磐の井
福知山城内には城郭内にある湛水井としては日本一の深さを誇る「豊磐の井」があります。直径は2.5m、深さはなんと50m。地下の水脈まで岩盤を掘り下げているため今でも清らかな水をたたえており、水深は37mに及びます。井戸には抜け穴があるという伝承もありますよ。
福知山城のフォトスポット
天守は見る場所によって形が変わるので、いろいろな方角から撮影しましょう。お城の上り口にある陸橋や、伯耆丸公園からの撮影がおすすめです。また、本丸広場の一角にはベンチと「丹波国 福智山城」の文字と桔梗門が描かれた石板があり、城との記念撮影にピッタリです。夜のライトアップも美しいですよ。
福知山城の見どころ10 福知山城の見どころ11 福知山城の見どころ12
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。