淀殿(淀君・茶々)(2/2)悪女と呼ばれた女が招いた最期
淀殿(淀君・茶々)
そして慶長19年(1614)。豊臣秀頼は京の方広寺(京の大仏)と大仏殿を再建します。ところがこの寺に納める梵鐘に書かれた銘文を徳川家は問題にしました。(方広寺鐘銘事件)
豊臣家は片桐且元を徳川家に派遣して弁明しましたが、物別れに終わります。徳川家は(或いは片桐且元が間に入った事で)以下の3つの条件から1つを選んで融和を図るよう求めました。
- 秀頼を江戸に参勤させる
- 淀君を人質として江戸に置く
- 秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する
豊臣家はこれを認めれば徳川家の傘下に入る事を認める事になります、淀君は頑なに拒否しました。ここから徳川家と豊臣家の戦いが勃発します。(大坂冬の陣・夏の陣)
豊臣家は大坂城に籠城します。淀君は自ら武具をつけ3、4人の侍女を引き連れ激励して回りました。
しかし慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大坂城は落城、淀君は豊臣秀頼や大野治長らと共に自害して亡くなりました。墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。
淀殿の最期を見た目撃者や記録がない事、遺体も確認されなかったので豊臣秀頼と同様に島津氏を頼って薩摩国に落ち延びた説や上野国厩橋まで遁れてきたという伝説があります。
鴫野神社(しぎのじんじゃ)と玉造稲荷神社
淀君は生前、弁財天を篤く信仰していました。弁財天は仏教における神様の名前で、日本の神様においては「市寸島比賣神」(いちきしまひめのかみ)(或いは市杵嶋姫命)と言います。市寸島比賣神は天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた宗像三女神の一柱で、航海守護の神様の他、子育ての神様でもあります。淀君も秀頼の成長を願って、弁財天を信仰していたのかもしれません。
さて大坂の陣で淀君は亡くなりました。大坂城の場外、鴫野の弁天島(現在の大阪ビジネスパーク辺り)に淀君が信仰していた鴫野弁天堂があった事からその側に祠を建て亡くなった淀君を祀ったとされます。この祠を淀姫神社と言います。或いは江戸時代、大坂に天変地異が起こった際、淀君の祟りと恐れられ淀姫神社を建てたとも言われます。
さて明治時代、この鴫野弁天堂や淀姫神社のあった場所に軍隊の練習場を作る事になりました。そこで淀君の魂は、豊臣と縁の深い太融寺に九輪の塔(後に戦災で六輪になりますが)を建て祀ります。
そして鴫野弁天堂と淀姫神社は大阪市内の生國魂神社に移します、これが現在の生國魂神社の末社の一つ鴫野神社になりました。鴫野神社は市寸島比賣神と大宮賣神(おおみやのめのかみ)、それと淀君の神の名である淀姫神の3神を祀っています。鴫野神社は悪縁を切り、良縁に結ばれる一願成就の御利益があるとされています。
淀君はその死後、淀姫神として現在も祀られています。
また玉造稲荷神社には淀殿と秀頼を結んでいた胞衣を「胞衣塚大明神」として祀っており、子供の夜泣きに霊験があるとされています。
淀城
淀城のあった淀。宇治川と木津川の合流地で形成された島、現在の京都市伏見区の京阪電鉄淀駅の南西に位置します。元々は与渡津(淀の港の意)と言われ、瀬戸内海から淀川に入り、京へ運ばれる商業地でした。また、大坂方面や大和国(現在の奈良県)から京へ入る要衝の地でもありました。
安土桃山時代、豊臣秀吉は茶々の産所として淀にあった城跡に城を築かせました。ここで生まれたのが秀吉最初の子、鶴松でした。又、淀城より茶々は淀君と呼ばれるようになりました。鶴松死後、拾丸(秀頼)誕生後、豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられ、淀城城主であった木村重茲は連座から自害を命じられます。この時、淀城も廃城しています。これが豊臣時代の淀城でした。
江戸時代に入ると元和9年(1623)8月、松平定綱が転封で淀にやってくると淀城を築城します。この時、廃城となった伏見城の資材も使われたと言われています。これが江戸時代の淀城となりました。
淀城は城主を変えながら明治までありましたが、明治に入り廃城となりました。現在、淀城は本丸や石垣を利用した淀城跡公園となり、実物大の櫓建物や内堀が復元されています。
淀殿(淀君・茶々)の記事を読みなおす
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。