榊原康政(1/2)徳川四天王の最期

榊原康政

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人物記
名前
榊原康政(1548年〜1606年)
出生地
愛知県
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岡崎城

岡崎城

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室町時代後期から始まった戦国時代。戦国時代は徳川家康が天下人になる事で平定されました。この徳川家康の家臣の内、特に有能な家臣を徳川四天王と呼びます。本多忠勝、酒井忠次、井伊直政などです。そして榊原康政もその一人でした。徳川家康が今川家の人質となっていた頃より仕え、家康の戦いのほぼ全てに参加した康政。今回は家康譜代の臣、榊原康政について見ていきたいと思います。

康政が生まれた榊原家

榊原康政が生まれた榊原氏。榊原氏は清和源氏足利家の庶流、三河仁木氏の流れです。仁木氏は伊勢国守護大名になり、その仁木氏の庶流が一志郡榊原に移って榊原を称しました。戦国時代に入ると三河国を治めていた松平家(後の徳川家)の家臣になり定着します。榊原康政の父は松平家の家臣酒井忠尚に仕えていた家臣でした。つまり榊原康政は家臣の家臣(陪臣)の家に生まれました。

出生から家督相続

天文17年(1548)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれます。小さな頃から勉学に励み、三河国大樹寺で文字を習い後には能筆化としても知られるようになりました。勉学にも励み字も上手かったことから、松平元康(後の徳川家康)の小姓として抜擢されます。永禄5年(1562)に父の榊原長政が亡くなると長政の弟、榊原一徳斉の後見を受けます。

永禄9年(1566)に19歳で元服。同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、徳川家康の側近となりました。

元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正9年(1581年)の高天神城の戦いと徳川家の戦いに従軍し手柄を挙げていきます。『武備神木抄』には「(榊原)康政は武勇では本多忠勝に劣るが、集団を指揮(部隊の指揮)する能力は康政、井伊直政が優れている」と記されています。個人の力では同じ徳川四天王の1人の本多忠勝に劣るが、集団を率いる管理能力は榊原康政の方が優れていたのでしょう。

兵の駆け引きが上手かった榊原康政とその家臣達。康政は自らの隊に「無」の一字だけを書いた旗を用いていました。この「無」の文字の意味は不明ですが、戦いに「無心」で臨むという意味だったのかもしれません。また、榊原康政が使用していた鎧「紺糸威南蛮胴具足」や「黒糸威二枚胴具足」などは、重要文化財として東京国立博物館に所蔵されています。

そんな榊原康政は次男にも関わらず、榊原家の家督を継ぎます。兄の榊原清政は徳川家康の長男松平信康の傅役でしたが、信康が自害に追い込まれると自責の念より隠居してしまいました。或いは清政自身も病弱であった事から榊原康政が兄清政の名代を務める事も多かったことから榊原家の家督を継いだと言われています。
ただ、清政の人柄には家康も一目置いており、病弱であった清政を徳川家康も度々見舞っていました。この兄の榊原清政は康政とは別に一家を立て、江戸時代に入ると徳川家康の葬られた久能山の城代を代々務める家となりました。
こうして手柄を立てていった榊原康政は徳川家康の信任を得て、一手の大将となっていきます。

伊賀越え

榊原康政が仕えていた徳川家康は、織田信長と同盟を結んでいました。その織田信長は日本各地を平定し着々と天下人の座に近づいていました。

天正10年(1582)、徳川家康は織田信長に挨拶をしに信長の居城安土城へ訪れます。この家康の一行には、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政など徳川家重臣の大部分も同行していました。徳川家一行は、安土城において織田信長の歓待を受けます。そこから京、堺へと移りました。ところが、その織田信長は本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれます。信長が討たれた時に、徳川家康は兵を持たず、堺という特段係わりのない地で漂っています。明智光秀はこの家康も討とうと考えました。徳川家康とその家臣達は伊賀の山道をかけ分けながら紀伊半島を横断した後、伊勢湾から船で三河国へと戻りました。

こうして織田家の同盟者、或いは織田家傘下の大名であった徳川家康は独立した大名となります。

小牧長久手の戦いと羽柴秀吉の追討令

織田信長が本能寺の変で討たれると、信長の家臣である羽柴(豊臣)秀吉が台頭してきます。天正12年(1584)、徳川家康は羽柴秀吉と対立、小牧・長久手の戦いに発展しました。

この戦いの最中、徳川家康は羽柴秀吉の織田家乗っ取りを非難する檄文を文筆家でもあった榊原康政に書かせ、秀吉に送りました。読んだ羽柴秀吉は激怒し、榊原康政の首を獲った者に十万石を与えると家臣達に伝えます。逆を言えば、徳川家の榊原康政の首には10万石の値がつき、それだけ康政自身の評価も世間に広まりました。

天正14年(1586)、徳川家康は豊臣秀吉(羽柴秀吉)と和解します。和解した徳川家康は榊原康政など家臣達を連れ豊臣秀吉の下を訪れます。この時、秀吉は康政と和解し従五位下式部大輔に叙任され、豊臣姓も下賜されました。榊原康政は豊臣秀吉により官位叙任の祝宴を受ける程に歓待されました。
榊原康政は徳川家の中でも名の知れた家臣として認知されてゆきました。

関東入封と館林城

天正18年(1590)、関東の北条家が豊臣家により滅ぼされました(小田原征伐)。この戦いで榊原康政は東海道を進む徳川家の先陣を務めるほか、降伏した領地の受け取り、北条氏政、氏照兄弟切腹の検死役に従事しています。

同年、豊臣秀吉は徳川家に三河他東海地方から関東への領地替えを命じました。この関東移封において榊原康政は上野国館林城(現在の群馬県館林市)10万石を与えられます。これは上野国高崎12万石に据えられた井伊直政につぎ、上総国大喜多10万石の本多忠勝と合せて3人が突出して大きな領地を与えられています。徳川家康の姻戚で徳川家老酒井家次(酒井忠次の長男)下総国臼井3万石よりも大きく、徳川家での序列が変わった事が伺えます。
榊原康政は館林に入ると利根川河川工事や街道整備に力を注ぎました。

関ヶ原の戦い前夜と宇喜多騒動

さて天下人であった豊臣秀吉が慶長3年(1598)に亡くなりました。
豊臣秀吉没後の事です。慶長4年(1599)、五大老の1人で備前国(現在の岡山県)を治めていた宇喜多秀家の家中で内紛が起こります。重臣だった戸川達安・岡貞綱などが、秀家の側近中村次郎兵衛の処分を求め大坂にあった宇喜多家の屋敷に立て籠もりました。家中は主人である宇喜多秀家と反秀家派とに割れました、宇喜多騒動と言われる事件です。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。