足利義昭(2/2)室町幕府最後の将軍
足利義昭
さらに、義昭は信長の武功に対し、副将軍か管領(または管領代)への任命、斯波氏の家督継承、その当主の官位である左兵衛督の地位、五畿内の知行など、褒賞として高い栄典を授けようとするも、信長はそのほとんどを拒否。
結局、信長は弾正忠への正式な叙任、桐紋と二引両の使用許可のみを受け取りました。また、信長は堺・草津・大津を自身の直轄地とすることを求めたことから、名より実を選択したようです。
幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表したほか、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っています。11月、義昭は近衛前久を、兄・義輝の殺害及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で追放、12月に二条晴良を関白に復職させました。
信長との共闘から離反へ
当初は信長との関係も悪くなかった義昭ですが、そのうち信長の将軍を重んじない姿勢に徐々に不満を募らせていきます。
元亀3年5月13日、義昭は甲斐の武田信玄に対し、「天下静謐」のために軍事行動を起こすように命じた御内書を送ります。これにより、信玄はその眼を西に向けるようになります。すでに、元亀3年1月に信玄は縁戚関係にある顕如より、信長の背後を突くように依頼を受けていたのです。
9月、信長は義昭に対して、自身の意見書である「異見十七ヶ条」を送付。この意見書は義昭の様々な点を批判しており、特にかつて殺害された過去の将軍の名を出したこともあって、信長と義昭の対立は抜き差しならないものとなりました。
10月3日、武田信玄が朝倉義景や浅井長政に出陣を告げ、同日に甲府より進軍を開始し、徳川氏の領国である三河・遠江に侵攻します(西上作戦)。通説では、義昭が異見十七ヶ条に反発し、信玄に内通した結果とされていましたが、近年ではこの侵攻は徳川家康を標的にしたもので、義昭が通じたものではないとする見方もあります。
信玄が三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を破り、徳川家康を敗走させると、信長は本国である尾張・美濃の防衛を迫られ、窮地に陥ります。
信玄の破竹の進撃で、幕府内部では「信長につくか、信玄につくか」で議論が交わされ、幕臣の多くが信玄の支持に回り、それが義昭と信長との離間につながります。
その後、義昭は京都を追放されて長い流浪の日々を送ることになりました。
信長の死と将軍辞任から秀吉との関係修復
天正10年、信長が本能寺の変で斃れた後権力を持ったのは豊臣秀吉でした。
天正13年7月、秀吉が朝廷より関白に任命されます。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代が2年半の間続きます。この間、義昭は将軍として、秀吉に抵抗する島津氏に対して、秀吉との和平を勧めていました。
天正14年(1586)8月、毛利輝元を先陣として、秀吉の九州平定が始まります。その後、島津氏が秀吉に降伏。秀吉は義昭の功を認めて、義昭が望んだ帰京も認め、毛利氏に対して義昭が帰京に使用するための船の調達を命じました。
義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、京都に帰還。義昭にとっては、約15年ぶりの京都でした。12月、義昭は大坂に赴き、秀吉に臣従。このとき、秀吉から山城国槇島において、1万石の領地を認められました。天正16年(1588)1月13日、義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を朝廷に返上します。これにより、室町幕府は名実ともに滅亡しました。
その後、義昭は再度出家し、昌山道休と号します。
晩年と最期
晩年の義昭は秀吉から厚遇されました。前将軍ということもあり、徳川家康や毛利輝元、上杉景勝といった大大名よりも上位の席次を与えられて斯波義銀や山名堯熙、赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、秀吉の良き話し相手となりました。
天正20年(文禄元年、1592)3月20日、義昭は文禄の役で、秀吉のたっての要請により、相国寺鹿苑院に宿泊し、武具などをそろえて出陣の準備をします。
義昭は由緒ある奉公衆などの名家による軍勢を従えて、後陽成天皇の見送りを受けながら、秀吉とともに京都を出発。
秀吉が肥前名護屋城に到着すると、義昭は城の外郭に布陣しました。
慶長2年(1597)8月、義昭は病床に伏し回復できぬまま、28日に大坂で薨去。死因は腫物であったとされ、病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされています。享年61。
僧としての生活を捨てざる得なくなり、俗世へ戻って将軍になり、時代に翻弄されながらも最後は秀吉に遇される最期を迎えた義昭。義昭の遺髪は等持院の足利将軍遺髪塔に収めるため、承兌が戒師となり、義昭の毛髪を剃ったとされています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。