足利義昭(1/2)室町幕府最後の将軍
足利義昭
応仁の乱後、室町幕府の求心力はより低下して、日本各地に有力武将が台頭します。それぞれの地域をまとめ上げた武将は戦国大名となり、天下を獲るために京の都への上洛を目指しました。そんな中、室町幕府最後の将軍となった足利義昭は殺されるのを避け、各地を転々として戦国大名の力を借りようとます。逃げ、流浪し、そして追放されたのちに各地を流浪した足利義昭の生涯を紹介します。
誕生から出家まで
天文6年(1537)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として、京都で誕生します。母は近衛尚通の娘・慶寿院です。幼名は千歳丸(ちとせまる)でした。
天文9年(1540)7月、千歳丸が3歳の時、父の義晴は大和国(現在の奈良県)の興福寺一乗院に入室させる契約を行います。既に、嗣子である兄の義輝(後の13代将軍)がおり、跡目争いを避けるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従うためでした。また、興福寺が大和一国の国主(大和の守護でもあった)だったため、寺社との関係を強化する目的で、将軍の若君が入室することによって、将来的に興福寺をはじめとする大和の寺社勢力が将軍家を扶助する体制を構築しようとしたようです。
天文11年(1542)9月11日、千歳丸が6歳の時、寺社奉行の諏訪長俊が義晴の使者として興福寺に向かい、「将軍の「若君」が11月に一乗院門跡・覚誉の弟子として入室するので、よく世話するように」と伝えました。
11月20日、千歳丸は伯父・近衛稙家の猶子となり、興福寺の一乗院に入室して法名を覚慶と名乗りました。覚慶は近衛家の人間として、一乗院門跡を継ぐ修行を行います。
その後、一乗院門跡となり、権少僧都にまで栄進、何事もなく二十数年を興福寺で過ごしました。何事もなければ、覚慶はやがて興福寺別当となって、高僧としてその生涯を終えるはずでした。
永禄の変から近江での生活へ
永禄8年(1565)5月19日、第13代将軍の兄・義輝が京都で三好義継や三好三人衆、松永久通らによって殺害されます(永禄の変)。このとき、母の慶寿院と弟で鹿苑院院主・周暠も殺害されました。
義輝の死後、覚慶は松永久秀らによって興福寺に幽閉・監視されます。久秀らは覚慶が第13代将軍の弟で、将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れ、幽閉したようです。
実際に監視付といっても、外出禁止の程度で行動は自由でした。
やがて、覚慶を興福寺から脱出させるべく、越前の朝倉義景が三好・松永に対して、「直談」で交渉を行いますが、この交渉は不調に終わり、謀略を使って脱出を行うことになりました。7月28日夜、覚慶は兄の遺臣らの手引きで、密かに興福寺から脱出。脱出には、義輝の近臣であった細川藤孝と一色藤長が活躍しました。
藤孝の画策で、米田求政が医術を以て一乗院に出入して覚慶に近づき、番兵に酒を勧めて沈酔させ、脱出に成功させたと伝わっています。
覚慶とその一行は、奈良から木津川をさかのぼり、翌日には近江甲賀郡の和田に到着。そして、和田の豪族である和田惟政の居城・和田城に入り、ここにひとまず身を寄せました。
覚慶はこの地で、足利将軍家の当主になることを宣言、各地の大名らに御内書を送ります。この呼びかけに、覚慶の妹婿で若狭の武田義統、近江の京極高成、伊賀の仁木義広らが応じたほか、幕臣の一色藤長、三淵藤英、大舘晴忠、上野秀政、上野信忠、曽我助乗らが参集します。
11月21日、近江の六角義賢の厚意で、甲賀郡和田から京都に近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に移り住み、在所とした(矢島御所)。当時、京都では三好義継ら三好氏が義秋の従兄弟・足利義栄を将軍に就任させようとしていましたが、松永久秀と三好三人衆の間で確執による内部分裂が発生し、これを上洛の好機と捉えました。
永禄9年(1566年)2月17日、覚慶は矢島御所において還俗し、義秋と名乗ります。
矢島御所で、義秋は近江の六角義賢、河内の畠山高政、越後の上杉輝虎、能登の畠山義綱らと親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺いました。
義秋の構想は、相互に敵対していた斎藤氏と織田氏、六角氏と浅井氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものでした。
そのうち、近江の六角義賢・義治父子が義秋に叛意を見せるようになり、近江も不穏となったため、撤退せざるを得なくなりました。
若狭・越前での生活
義秋は妹婿の武田義統を頼り、若狭国へ移ります。このとき、義秋は4、5人の供を従えるだけであったと言われています。
その後、義秋は若狭から越前国敦賀へと移動し、さらに朝倉景鏡が使者として赴き、義秋は朝倉義景のいる一乗谷に迎えられます。
永禄11年(1568)2月8日、義秋の対抗馬である足利義栄が摂津の普門寺に滞在したまま、将軍宣下を受けました。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握で次期将軍候補としては対抗馬である義栄より有利な環境にありながら、いつまでも上洛できない義秋に対し、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄が、義輝によって取り潰された元政所執事の伊勢氏の再興を約束するなど、朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続けた結果でもありました。
義秋は「秋」の字は不吉であるとして、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、一乗谷の朝倉氏の館において元服式を行い、名を義昭と改名しました。
ようやく上洛して機内平定
義昭が越前に滞在中、織田信長は義昭からの上洛要請を忘れず、それを果たすため、永禄10年には松永久秀と結び、近江の山岡氏や大和の柳生氏にも働きかけていました。また、信長は美濃での戦いを有利に進め、永禄10年8月には斎藤氏の居城・稲葉山城を落とし、翌11年には北伊勢も攻略するなど、着々と準備を進めていました。
義昭は朝倉氏の家臣であった明智光秀の仲介で、信長との交渉を再開します。永禄11年7月13日、義昭は一乗谷を出発し、16日には信長の同盟者・浅井長政の饗応を小谷城で受け、25日には信長と美濃の立政寺で対面。
9月7日、信長が尾張・美濃・伊勢の軍勢を率い、美濃の岐阜から京都へと出発しました。義昭と歩調を合わせ、上洛の準備を整えてからの出兵です。
9月22日、義昭はかつて父・義晴が幕府を構えていた近江の桑実寺に入ります。
9月27日、三好方の五畿内と淡路・阿波・讃岐の軍勢が山崎に布陣しているという情報が流れ、信長の先陣を派遣したところ、すでに軍勢は撤退、信長は河内方面に軍を進め、山崎・天神馬場に着陣しました。義昭も清水寺から東寺に移り、西岡日向の寂勝院に入りました。
その後、着々と畿内を平定し無事に京都に辿り着くことができたのです。
将軍就任と幕府再興
義昭は朝廷から将軍宣下を受け、室町幕府の第15代将軍に就任。
義昭は信長を最大の功労者として認め、「天下武勇第一」と称えて、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可。また、幕閣と協議した末、信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いました。
義昭が信長に対して宛てた10月24日の自筆の感状では、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことは、ことに有名です。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。