松永久通天下人の間で翻弄された大名

松永久通

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人物記
名前
松永久通(1543年〜1577年)
出生地
奈良県
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多聞城

多聞城

関係する事件

戦国時代、三好長慶は近畿を中心とした天下を掌握しました。この長慶を助けたのが松永久秀です。久秀は最終的に大和守護大名になります。そして久秀の嫡男が松永久通でした。しかし久秀、久通親子は三好家と内戦状態に入ります。不利な状況に置かれた松永家は織田信長に助けを求め傘下に入りました。ところが松永家は織田家に追い込まれていきます。今回はそんな松永久通を見ていきます。

松永久通の父、松永久秀

松永久通の父、松永久秀は三好家に仕えていました。ただし、代々三好家に仕えていた訳ではなく、三好長慶の祐筆(秘書)として現地登用されます。そこから長慶の勢力拡大に伴い、祐筆から奉行、更に軍勢を率いる武将へと才覚一つで出世しました。長慶も松永久秀の才覚を高く買い、室町幕府や朝廷との折衝を行わせるなど片腕として重宝します。 
そんな三好家重臣の松永家に松永久通は生まれました。

松永久通の出生から家督継承

松永久通は天文12年(1543)、三好長慶の家臣であった松永久秀の嫡男として生まれます。久通が生まれた前年は、父の松永久秀が三好長慶の武将として大和国(現在の奈良県)の征討を行っていた時期であり後年、松永家は大和国の守護大名となりました。

松永久通は早くから父に従い、精力的に仕事をこなしていきます。資料の上では永禄3年(1560)河内国(現在の大阪府東部)にあった観心寺に禁制を掲げた事が初出として残っています。

そんな久通は父の下で仕事をこなし20歳になった永禄6年(1563)12月、従五位下右衛門佐に叙位された上で、家督を譲られ大和国多聞山城主となります。大和国を治めながら、久通は三好家を支える事になりました。

三好長慶の死と義嗣の継承

松永家が仕えていた三好長慶は、畿内を中心とした天下人となりました。ところが永禄6年(1563)に長慶唯一の実子であった三好義興が亡くなります。この時、長慶は子に先立たれたことにショックを受け体調を崩したと言われています。三好家は長慶の甥、三好義継が後継に決まりました。

松永久秀が久通に家督を譲ったのは、この三好義継の後継決定の直後でした。三好家内部は世代交代を行います。或いは松永久秀は亡くなった三好義興を支えていたので、義興色を払拭するために家督を譲ったのかもしれません。

そして永禄7年(1564)に体調を崩していた三好長慶は亡くなりました。
永禄8年(1565)5月1日。
三好家の後を継いだ三好義継は、やはり松永家を継いだ松永久通を連れ上洛します。将軍であった足利義輝に謁見し、二人は義輝からそれぞれ名の一字を拝領します。久通は足利義輝の一字「義」の偏倚を受け松永義久と改名しました(以降も松永久通の名で統一します)。

永禄の変

ところが将軍足利義輝に謁見したわずか半月後の5月18日。
三好義継は軍勢を引き連れ再度、義輝の館を訪れます。この時付き従ったのは、長老であった三好長逸を代表とした三好三人衆、それと松永久通でした。三好家は将軍の館を囲むと、強訴に及びます。内容は三好家を排除しようとする将軍近臣の処分でした。ところが強訴の途中から、三好家は館に押入り足利義輝を討ちます。(永禄の変)
この時、松永久通は将軍から受けた義長の名を久通に戻したとされます。

三好家の内紛

13代将軍足利義輝が、永禄の変で亡くなりました。義輝を討った三好家は、阿波国(現在の徳島県)で匿っている義輝の従弟、足利義栄(足利義維の子で後の14代将軍)を次期将軍に就けようと考えます。

ところで足利義輝には唯一生き残った兄弟がいました、後の15代将軍となる足利義昭です。義昭は大和国興福寺で僧をしていました。そうです、松永家が治めている大和国のお膝元です。兄の義輝が三好家により殺された事で、弟の義昭も命の危険を覚えます。足利義昭は松永久秀に庇護を求め、久秀も了承する手紙を残しています。しかし、久秀から保証を受けた足利義昭。義昭は亡き足利義輝の家臣達に手引きをされて大和国を脱出しました。

これに激怒したのが三好家の長老、三好長逸です。三好家は次の将軍に息の掛かった足利義栄をと考えていましたので、次期将軍の資格のある義昭の逃亡は大失態でした。三好長逸は三好家当主である三好義継に松永久秀の責任を問うよう詰め寄ります。ところが三好義継はきめきれませんでした。そこで三好長逸は義継のいる飯盛山城に出向くと、三好義継をさらい幽閉してしまいます。そして松永久秀討伐の命を出しました。
ここから三好長逸を中心とした三好家と松永久秀を中心とした松永家の内戦に突入します。

三好家と戦う事となった松永家は劣勢でした。大和国の守護大名でしたが、地元の小領主(国人衆)である筒井順慶などは三好家につきます。松永久秀は近畿の大名に反三好を呼び掛けました。その為、翌永禄9年(1566)6月から姿をくらましました。松永久秀の足跡は、ここから1年間消えます。一説にはこの間に美濃、尾張(現在の岐阜県、愛知県西部)の大名となった織田信長と交渉をもったとも言われています。というのも織田信長はこの年、大和国の国人衆や寺に松永家に付いて三好家に抵抗するよう書状を送っています。

家督を譲ったとはいえ松永家の中心人物である松永久秀が忽然と姿を消したのです。残された現当主である松永久通は多聞山城に籠城し三好家と争い続けました。

織田家の支配下に

三好家と松永家とが内戦状態に入って3年。永禄11年(1568)になっても、三好家は大和国に駐屯し松永家を監視します。

ところが、同年秋。足利義昭を擁した織田信長が上洛に成功します。松永久秀は自らの娘と秘蔵の茶器「九十九髪茄子」を差し出しました。松永家は将軍足利義昭の家臣として、織田家に属する有力大名として大和国の守護大名を認められます。

更に織田信長は織田家や室町幕府の家臣を大和国へ派遣します。派遣された軍勢は約2万。この織田家の軍勢と松永家は協力して、三好家や三好家に付いた筒井順慶を駆逐します。

勢力を回復した松永家。当主である松永久通は山城国大山崎に禁制を掲げている事から、危機を脱して勢力を回復した事が伺えます。

冬には大和国の大部分は再び松永家の勢力下に納まり、年末も押し迫った12月24日。松永久秀は岐阜城へ訪れ、織田信長に「不動国行の刀」以下の諸名物を献上し織田家の覇権の一角を担う立場となりました。

ところで織田信長と松永久秀とが岐阜城で会談している間。三好家は兵力を再編成して京へ進撃しています。永禄12年(1569)1月4日、京にいる足利義昭は三好家の襲撃を知り本圀寺に立て籠もりました。そして幕府の家臣と抵抗し、三好家を押し返しています。三好家はこれにより畿内を棄て、完全に四国へと撤退しました。(本圀寺の変)

この事件を知った織田信長と松永久秀は豪雪の中を無理に押し、現場の指揮を執る為に京へと向かっています。
こうして松永家は三好家から、織田家に鞍替えし大和国を引き続き治める事になりました。

織田家からの離脱

松永久秀と久通親子は三好家と内戦状態に入った後、織田家に属する事になりました。
松永家はここから織田家の戦いに参加します。

元亀元年(1570)4月、織田信長は若狭国の国人武藤家を討伐する為に徳川家康と越前若狭国(現在の福井県)に出陣。表向きは武藤家の討伐でしたが、目的は越前国朝倉家の討伐でした。この織田家の軍には松永久秀を筆頭に畿内の大名国人領主も参加しています。ところが越前国金ヶ崎までくると北近江の浅井長政が裏切り挟み撃ちにあいます。松永久秀は近江国朽木谷領主である朽木元綱を説得して織田信長の退路を確保。織田家は京へ退くことが出来ました。(金ヶ崎の退口)

それから2ヶ月後の6月末、織田家と徳川家は姉川で浅井朝倉家と激突(姉川の戦い)。この時は、松永久秀、久通親子は参加していません。春日大社に揃って参詣した後、大和国の国人衆討伐を行っていました。ただ、姉川の戦い直後に松永久秀は京に駐屯しています。

9月、四国に退いていた三好家が摂津国へ進軍、野田城福島城に籠ります。織田信長が討伐軍を作り、摂津国で城に籠っている三好家を討伐します。この三好家の侵攻を聞き、松永家は最初、奈良にある多聞山城から河内国の信貴山城に軍を移動。更に信貴山上から織田家の軍に合流しました。『二条宴乗記』によれば従軍していた松永久通は対陣中に身体を壊し、信貴山上へ戻っている事も分かっています。この戦いは俗に第1次信長包囲網と呼ばれる一連の戦いの緒戦に当り、不利となった織田家は三好家と和睦。和睦のしるしとして織田信長が預かっていた松永久秀の娘を信長の養女とした上で三好長治に嫁がせました。

こうして2年ほど織田家に属していた松永家。
ところが織田信長が三好家と和睦を行ったあたりで、松永家は織田家を離脱します。松永久秀は織田家に属していた畿内の大名国人衆の城を攻めました。又、織田信長に擁立されていた足利義昭も織田家を離れ反織田の勢力に加わった事で、新たな信長包囲網が出来上がります。(第2次信長包囲網)

織田家の再傘下に

天正元年(1573年)4月、足利義昭を中心とした反織田勢力は動き出します。ところが義昭を支持し主力であった甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄が三方ヶ原の戦い直後、亡くなります。武田家が西上してくる事を見越して挙兵した足利義昭は織田家に追放されます。

12月には織田家に反旗を翻していた松永家も多聞山城を包囲されます。松永久秀は多聞山城を明け渡し、降伏しました。松永久通は岐阜城へ赴き、降伏を願い出ました。

松永家は信貴山城に移り、織田家家臣の佐久間信盛、次いで大和国守護大名となる原田(塙)直政の与力に入ります。大和国は大和の国人衆であった筒井順慶と原田直政を中心に運営されることになりました。
この織田家の新体制の下、天正3年(1575)7月に松永久通は十市遠勝の娘を妻に迎え、龍王山城に移りました。

織田家傘下からの再離脱と松永家の最期

天正4年(1576)原田直政の与力であった松永家は石山本願寺攻めに参加しましたが、天王寺の戦いで敗北。原田直政は戦死、一時は松永久通も戦死したと噂が流れたほどでした。

大和国を支配していた原田直政が討死すると、織田信長は筒井順慶を新たな統治者に据えます。又、織田信長は松永家の象徴であった多聞山城の破却を決め、その解体には松永久通も加わりました。

天正5年(1577)、織田信長に追放された足利義昭は反織田勢力を形成、中国地方の毛利家や石山本願寺、越後国(現在の新潟県)の上杉謙信の結集に成功します。松永家は本願寺攻めに参加していましたが、勝手に離脱し反織田勢力に加担します。松永家、再々度の裏切りです。

松永久秀は織田家に嫌気が差していたのでしょうか、織田信長から派遣された松井有閑と会おうともしませんでした。
同年10月、織田家は信貴山城に籠る松永久秀を囲み自害に追い込みます。その前哨戦において、柳本城に籠る松永久通も自害に追い込まれました。

三好家において裸一貫から守護大名に栄達した松永久秀。その久秀の嫡男松永久通は父と共に三好家と戦います。そこから織田家に鞍替えし危機を脱しましたが、結局はその織田家によって松永家は滅びました。
松永久秀と松永久通親子は戦国時代、才幹一つで波乱の時代を駆け抜けました。

多聞山城

多聞山城(たもんやまじょう)は松永久秀によって建てられた平山城です、多聞城とも呼ばれています。城内に多聞天(仏神四天王の1人)を祀ったことより多聞山城と名付けられます。現在の若草山中学の場所に在り、東大寺や興福寺を眼下に望む城として大和国を支配する拠点となりました。

永禄8年(1565)に出された宣教師ルイス・デ・アルメイダの書簡をルイス・フロイスの『日本史』に引用されたことで多聞山城は知られるようになります。

ルイス・デ・アルメイダは招待を受け城内を見、書簡に記しています。
それまで公家の屋敷や寺院などでした使われていなかった礎石や石垣を使用し、分厚く白い土塀、瓦ぶきの建物、本丸の存在と現在の城の原型を見せています。

永禄2年(1559)に築城が開始され、永禄7年(1564)完成し松永家の居城となります。ところが織田家を裏切った松永家は天正元年(1573)末に降伏し城は織田家に引き渡されました。織田家の家臣で大和守護として入った原田直政が城主として入りましたが、天正4年5月に直政は討死。大和国は原田直政から筒井順慶に統治が移行した為、天正5年(1577年)に多聞山城は破壊されました。城があった期間はわずか16年間。建物や内装は京都の二条新御所に移築され、石材の多くは筒井城、郡山城に用いられました。現在、多聞山城のあった場所には中学校があり、城の名残として石碑が立っています。

松永久通の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1558年頃 永禄元年頃 0歳 大和国の戦国大名・松永久秀の子として生まれる
1560年代 永禄年間 10代 父・松永久秀のもとで大和国の支配に関わる
1577年 天正5年 20歳頃 織田信長に対して父とともに反旗を翻す
1577年 天正5年 20歳頃 織田軍により信貴山城を攻められる
1577年 天正5年 20歳頃 父・松永久秀とともに信貴山城で自害
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。