斎藤義龍(2/2)6尺5寸の大大名

斎藤義龍

斎藤義龍

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人物記
名前
斎藤義龍(1527年〜1561年)
出生地
岐阜県
関連する城・寺・神社
岐阜城

岐阜城

更に亡くなった道三は娘婿にあたる信長に、美濃国を譲るともとれる遺書を残していました。道三は最後まで斎藤義龍を認めようとしませんでした。
また斎藤義龍の末弟(斎藤道三の5男)斎藤利治は信長の下に逃げ、後に信長は斎藤家の名跡をこの利治に継がせました。

このように美濃国を支配下に治めた斎藤義龍は、道三の側にたった織田信長と初めから敵対関係にありました。そこで義龍は尾張国の中で信長と反りの合わなかった織田伊勢守信安(尾張上四郡「岩倉織田家」当主)と手を結びます。更に尾張下四郡を支配する信長の内部にも手を入れ、信長と対立していた弟織田信行にも力を貸したといわれています。

しかし結果は義龍の考えていた通りにはならず、織田信長は窮地に立ちながら、最終的に尾張国の中で勝ち抜き地盤を築いていく事になります。

義龍の死

父であった斎藤道三を倒し、美濃国を支配した斎藤義龍。
義龍は当主になると土地を荘園制ではなく貫高制で統治しました。この貫高制は戦国大名に見られる特徴で、新しい領土管理や軍役体系が構築されたと考えられています。

国内政治で改革を行っていた義龍。ですが自らの姓である道三流斎藤家は下剋上で美濃国を奪った斎藤道三の姓です。「斎藤」という姓では国を纏め切れないと、義龍は考えていました。そこで京の将軍足利義輝に頼み「一色家」を名乗る事を願います。この願いは聞き届けられ、姓を一色へと改姓します。永禄元年(1558)には治部大輔に叙任され、翌年に義龍は上洛し足利義輝に謁見しました。反対に足利義輝の側も将軍の権威を回復したいと考え、全国の有力大名と関係を築いていました。その為に自らの名を与えたり(例えば上杉輝虎(謙信)の「輝」の字は足利義輝の「輝」の字)幕府の役職を拡充し与えたりしていました、斎藤義龍は将軍より幕府の役職「御相伴衆」に任じられています。

こうして内政改革だけではなく中央とのパイプを強固にした義龍。地盤を安定化させ、力を付けた次は近隣との関係でした。隣国の南近江(現在の滋賀県南部)を治めていた六角義治と同盟を結び、北近江の浅井家に侵略を行います。しかし尾張国を纏めた織田信長の美濃国侵攻もあり、思った勢力拡大には至りませんでした。
ところが、永禄4年(1561)左京大夫に任じられましたが同年の5月に突如、斎藤義龍は病死してしまいました。享年33(ないしは35)、辞世は「三十余年、守護天入、刹那一句、仏祖不伝」。齋藤家は義龍の子龍興が継ぎます。

斎藤家のその後

齋藤義龍が病死した事により10代で美濃の国守となった義龍の子、斎藤龍興。
しかし永禄10年(1567)、西美濃三人衆と呼ばれる稲葉良通や氏家直元、安藤守就らが織田家に内応した為、稲葉山城を奪われます。20歳になった斎藤龍興は美濃国から逃れ石山本願寺や朝倉家に客将として身を寄せながら、織田信長と戦い続けます。
そして天正元年(1573)8月、朝倉家が浅井家を支援する為、近江国北部に従軍した際、戦死しました。(刀禰坂の戦い)

ここに斎藤義龍の男子直系は途絶えます。道三流斎藤家で最期まで生き残ったのは、義龍の末弟である斎藤利治でした。利治は斎藤道三が長良川の戦いで討たれた際、織田家に身を寄せました。織田信長も道三流斎藤家の後継者と考え厚遇しましたが、本能寺の変の折り織田信忠とともに二条新御所において戦死します。しかし利治の子供たちは各地の大名の家臣として仕え江戸時代を迎えました。

こうして斎藤道三とその父であった松波庄五郎、道三の子義龍、義龍の子龍興。4代に渡った道三流斎藤家の国盗りは美濃国の侍たちを巻き込みながら終焉する事になりました。

斎藤義龍の菩提寺と肖像画

斎藤道三より三代、道三、義龍、龍興の菩提寺は岐阜市常在寺にあります。
常在寺は宝徳2年(1450)、美濃国守護代であった斎藤家が京の妙覚寺から僧を招き建立したのが始まりとされます。その後、斎藤道三の父長井新左衛門尉が常在寺を頼って山城国から来ました。もともと商人であった新左衛門尉は武士になる事を考え、常在寺の住職に仲立ちを依頼したと言われます。それにより美濃国小守護代長井長弘の家臣に成ることが出来、地盤を築いていきました。
この縁で美濃国を奪った道三は常在寺を保護し、道三より三代の菩提寺となります。

寺には三代の位牌や道三の供養塔、斎藤道三、斎藤義龍の肖像画があります。また、毎年4月に行われる「道三まつり」はこの寺で追悼式が行われた後、神輿などが町を練り歩きます。

稲葉山城

建仁元年(1201)二階堂家が井口の山(現在の金華山)に砦を築いたのが始まりとされます。この砦は鎌倉時代中期に一度廃城となりました。

15世紀中期、美濃国守護代斎藤家が廃城となった砦を修復し居城を築きます、これが稲葉山城の始まりです。
1500年代に入ると長井長弘とその家臣であった長井新左衛門尉が謀反をおこし稲葉山城を奪います。ところが長井長弘も長井新左衛門尉に討たれ、稲葉山城は新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉が亡くなるとその子の長井新九郎規秀が跡を継ぎます。この長井新九郎規秀が斎藤道三(斎藤利政)です。道三は美濃国守護土岐氏を追放し国を奪います。こうして稲葉山城は美濃国の中心となりました。
その斎藤家も織田信長により追われ、稲葉山城は岐阜城と名前を変えます。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦で激しい攻防戦が行われ、翌慶長6年(1601)に徳川家康は岐阜城の廃城を決めました。
平成23年(2011)、岐阜城及びその周辺は国の史跡に指定されています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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