斎藤義龍(1/2)6尺5寸の大大名
斎藤義龍
俗に戦国と呼ばれた時代。この時代、家臣が主君を倒し実力で国を奪う者が現れました、下剋上を成し遂げた者です。その代表的な1人が斎藤道三でした。道三は美濃国(現在の岐阜県)の守護大名であった土岐氏を追い出すと美濃国を統べます。この道三の嫡男が斎藤義龍でした。ですが義龍は父の道三と争い討ちます。では何故、義龍は道三を討ったのか。今回は斎藤義龍について見ていきます。
義龍の父、斎藤道三
そもそも齋藤家は平安時代中頃、鎮守府将軍藤原利仁の子、斎藤叙用を祖とします。斎藤氏は北陸地方を始め中部、関東に広く繫栄した一族でした。そして北陸の斎藤氏から分かれて美濃国に移り住んだのが美濃斎藤氏です。
美濃斎藤氏は室町時代、美濃国守護土岐氏に仕えます。文安元年(1444)、美濃斎藤氏の斎藤宗円は京の土岐屋形において富島氏を謀殺し美濃国守護代となります。宗円の嫡男利永は美濃国守護代を継ぎましたが、次男の妙椿は京に出て室町幕府に仕え応仁の乱では西軍主力として各地を転戦します。この美濃国守護代となった嫡男利永の斎藤家と室町幕府に仕えた次男妙椿の家系は争い、斎藤家の力が衰え斎藤家の庶流である長井氏が台頭してきました。
天文8年(1539)頃、この長井氏に仕えたのが松波庄五郎(長井新左衛門尉)です。庄五郎は山城国(現在の京都府)で商人をしていましたが、美濃国常在寺を仲立ちとして長井家に仕えます。そして庄五郎の子、長井規秀は力をつけながら最終的に美濃国守護土岐氏を駆逐し国を奪います。この長井規秀が後の斎藤道三でした。斎藤道三から始まる斎藤氏は道三流斎藤氏とも呼ばれますが、この斎藤道三の嫡男として斎藤義龍は生まれます。
斎藤義龍は当時、稀に見る大男で身長が六尺五寸(約197cm)もあったと言われています。そんな大男だった義龍は斎藤道三の子として生まれた故に苦難の人生を歩む事になりました。
義龍の生まれ
齋藤義龍は大永7年(1527)7月、斎藤道三(斎藤利政)の嫡男として生まれます。母は側室の深芳野でした。
深芳野は斎藤道三の主君美濃国守護大名土岐頼芸の側室でしたが、後に道三の側室となります。江戸時代に編纂された「美濃国諸旧記」では、この道三の側に移った時に深芳野のお腹には土岐頼芸の子がいて、それが義龍だったと記されていました。ただし近江国(現在の滋賀県)守護大名六角義賢(六角承禎)が永禄3年(1560)に家臣へ宛てた手紙の中に義龍の父は斎藤道三だと書かれている事から、斎藤義龍が道三の子ではなく土岐頼芸の子だ、というのは信憑性の薄い話とされています。
さて斎藤義龍14歳ごろ、父斎藤道三の国盗りが始まります。
天文10年(1541)、斎藤道三は主君土岐頼芸の弟土岐頼満を毒殺した事で、土岐頼芸と斎藤道三が対立します。道三は不利になりながらも、天文11年(1542)に土岐頼芸を尾張へ追放し、事実上の美濃国主となりました。追放された土岐頼芸は尾張国(現在の愛知県)織田信秀や越前国(現在の福井県嶺北)朝倉家を頼り美濃国復帰を画策します。とくに尾張国の国人だった織田信秀は執拗に美濃国を奪おうとしました。天文21年(1552)まで美濃国は不安定な情勢となります。
この美濃国の情勢不安を解決するために、斎藤道三は天文17年(1548)に娘の帰蝶(斎藤義龍の異母兄妹)を信秀の嫡子織田信長に嫁がせるなど、周辺の大名国人に融和策をとり腐心しました。
斎藤義龍は、父道三が行った美濃国の国盗り物語を見ながら大人へと成長していきます。
父道三との確執
天文23年(1554)、斎藤道三は剃髪し(ここから道三と名乗るようになります)家督を斎藤義龍に譲ると鷺山城に隠居しました。
道三の隠居は、道三が下剋上で土岐氏を追い落とし美濃国を混乱させ民政を疎かにした事に家臣たちの反発を招いた結果だと考えられています。ただ、道三の隠居は『美濃国諸旧記』に記されていますが、『信長公記』や『江美濃記』では述べられていないので、隠居自体はせず一線を引いただけとも考えられています。
こうして斎藤義龍は道三流斎藤家2代目として美濃国を治める事になりました。ところが隠居した道三は義龍を「耄者(ほれもの、(愚か者の意味)」と周りに話し、義龍の弟たち孫四郎や喜平次ら(義龍の異母兄弟、正室小見の方の子たち)を溺愛するようになりました。片や義龍も、父の振る舞いに対し不満を募らせます。道三と義龍とは親子でありながら険悪となりました。
そして道三は義龍を廃し、孫四郎を当主としようとします。三男の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせました。美濃国の守護大名土岐氏11代目当主土岐成頼は名門一色氏からの養子でした(異説あり)。また一色氏は土岐氏と違い足利将軍家から分かれた庶流でもあった為、将軍家に連なる家として一色家の方が家格は上だと考えられていました。そこで一色姓を名乗らせる事で、美濃土岐氏の正当な後継である事を示そうとします。
こうして親子の対立は最悪の事態を迎える事になります。義龍も相応の覚悟があったのでしょう、父道三と争う前に「范可(はんか)」と名乗っています。「范可」は中国唐の時代、止むを得ない事情により父親を殺した人物が出て来る故事です。義龍は父と争えば、討たなければならい事になると覚悟して「范可」を名乗ったのかも知れません。
長良川の戦い
弘治元年(1555)斎藤義龍は、斎藤道三が私邸に出て留守の時を狙います。2人の弟(喜平次、孫四郎)に自らが重病である事を告げ呼び寄せました。弟たちは斎藤義龍の見舞いに訪れましたが、その場で殺害されます。更に弟たちを殺害後に、道三に使者を送りこの事を伝えました。驚いた道三は、手近な兵を集めて城下を焼くと、長良川を越え大桑城へと逃れます。
冬になり雪の季節となった事から双方は出兵を控えましたが、春が近づくと更に情勢は悪化し合戦以外での決着は考えられないものとなりました。美濃国の侍はこの親子の二手に分かれる事になりました。しかし道三が国主となった経緯を嫌気し大半が義龍の側に付きます。数で劣る道三は娘婿の織田信長に助けを求め、尾張国から信長も出兵しました。
弘治2年(1556)4月、道三は織田信長と合流する前に鶴山、更に長良川北岸に布陣。義龍の家臣である長屋甚右衛門が道三の陣営に一騎打ちを申し出、道三の側から柴田角内が出てきます。一騎打ちは長屋が討たれましたが、これを契機に道三と義龍の兵は激突しました。緒戦こそ道三は優位に戦いを進めましたが数で劣る為、次第に劣勢となり最後は捕らえられ討たれます。
援軍に来た織田信長は合戦に間に合わず、尾張国へと撤退しました。(長良川の戦い)
義龍は戦いの直後、道三の側に付いた明智家なども追討し戦後処理を行いました。この攻められ、美濃国を逃げ出した明智氏の1人が明智光秀です。
織田信長との対立
長良川の戦いの直前、斎藤道三は織田信長に加勢を求めます。ところが信長は戦いに間に合わず、斎藤義龍に攻められました。この攻められた時、織田軍を退却させる為に信長自身は最後方で鉄砲を放ち、斎藤軍を撃退したと伝えられています。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。