足利義輝(2/2)剣豪と呼ばれた室町幕府13代将軍

足利義輝

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人物記
名前
足利義輝(1536年〜1565年)
出生地
京都府
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二条城

二条城

関係する事件

10月2日、長慶は細川晴元が香西氏らと法禅寺で挙兵したことを受け、義輝に貞孝を通して、比叡山延暦寺と六角義賢に対して晴元を追い払うことを命じる御内書の発給を求めます。
同月15日、三好実休が高政の援軍として駆け付けた紀伊の根来衆を打ち破り、畠山氏の敗北は決定的に。同月24日に河内の飯盛山城が、27日に高屋城が開城し、高政は堺に退去しました。
永禄4年(1561)5月、長らく反三好の旗頭であった晴元が長慶との和睦に応じ、出家して摂津冨田の普門寺に入っています。

7月、畠山高政と六角義賢が結んで畿内で蜂起、久米田で7か月にわたって対陣しました。畠山氏・六角氏の蜂起は、畿内で伸長する三好の封じ込めの意図があり、同月23日に義輝は紀伊の湯川直光に対し、高政と義賢が出陣してきたので、長慶・義興父子に味方するように御内書を発給し、高政を牽制しています。

貞孝の死後、義輝は近臣の摂津晴門を新たな政所執事とし、伊勢氏の人物を任用しませんでした。これによって、かつての3代将軍・足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道が開きます。また、伊勢氏に独占されていた莫大な権益を自ら掌握することで、将軍としての地盤も強固なものにしたのです。

三好氏との対立

義輝は帰京して以降、三好長慶ら三好氏の傀儡になることなく独自に政治決裁を行い、その政治的地位を固めていきますが、他方、将軍に忠誠心を見せる大名が現れたことは、三好氏にとって脅威であり、警戒心を高めさせました。

永禄7年(1564)6月に長慶は次弟・安宅冬康を逆心の疑いで誅殺するも、その死後に激しい後悔に襲われ、自身の病を悪化させます。

同年7月4日、三好氏の惣領たる長慶が病死。長慶の死後、三好氏は長慶の甥で十河一存の息子・三好重存(のち義継に改名)が新たな惣領となり、三好三人衆や松永久秀、その長男・松永久通が補佐にあたりました。
しかし、長慶をはじめとする三好氏の主要人物が死んだことで、三好氏の権威低下は決定的なものとなり、衰退していきます。一方、義輝の権威はこれを機に上昇し、幕府権力の復活に向けて、さらなる政治活動を行なおうとしました。

同年12月以降、義輝は三管領の斯波氏の屋敷・武衛陣跡に、新たな屋敷の建築を開始。この屋敷は京の二条に存在したことから、二条御所と呼ばれています。

義輝の最期「永禄の変」

しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする三好氏にとって、将軍としての直接統治に固執する義輝は邪魔な存在です。

三好三人衆らは阿波の足利義維と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うも、朝廷は耳を貸しませんでした。
一方で、義輝が頼みとする近江の六角氏は永禄6年8月の観音寺騒動以降、領国を離れられないという事情を抱えていたのです。

永禄8年(1565)4月30日、三好重存が上洛し、5月1日に義輝に謁見。その際、義輝は重存に「義」の偏諱と左京大夫の官位を与え、重存は義重と名乗ります。
その後、5月18日までは京では平穏な状況が続きます。

5月19日、義重は三好三人衆や久通とともに、清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い、突如として二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと訴え、取次ぎを求めて御所に侵入します(永禄の変)。二条御所の完成間近を狙った攻撃であり、 開戦は午前8時頃であったといわれています。

義輝は三好軍が二条御所に侵入したのち、劣勢であることを悟り、死を覚悟。そして、近臣らに酒を与えて、最後の酒宴を行い、皆で別れの酒を酌み交わしたのち、三好氏との取次であった進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて、義輝の御前で自害しました。

その後、義輝と近臣は三好軍に立ち向かい、近臣たちは皆討ち死にし、午後11時頃に義輝もついに力尽き、三好の兵に討たれたのでした。享年30。

義輝の最期に関しては諸説あり、フロイスの『日本史』では、義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された、と記されています。
『足利季世記』では、奮戦する義輝は三好の兵を寄せ付けず、最期は槍で足を払われて倒れたところを、寄せ手の兵たちに四方から障子を覆い被せられ、その上から刺し殺された、と記されていますが、事件の際に在京していた山科言継の『言継卿記』には、義輝が「生害」したと記されていて、討死したとも自害したともとることができるのです。

この時、義輝とともに多くの幕臣が討死・自害していますが、三好軍は義輝の生母である慶寿院も自害に追いやり、側室の小侍従局も殺害しています。殺戮が終わると、三好軍は二条御所に火をかけ、多くの殿舎が炎に包まれたといわれています。

永禄の変は、世間を憤慨させました。特に義輝と親しくしていた大名らは怒り、上杉輝虎は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったといわれています。

また、河内の畠山氏の重臣・安見宗房も「前代未聞で是非も無いこと。(略)無念の至りだ」と怒りをあらわにし、上杉氏の重臣らに弔い合戦を持ちかけています。朝倉義景の重臣らも同様に、「誠に恣の行為で、前代未聞、是非なき次第で沙汰の限りだ」と怒りをあらわにしたとされています。それほどこの事件は、世間に大きな衝撃を与えました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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