浅井長政(2/2)北近江の浅井家最後の当主
浅井長政
予期せぬ長政の裏切りで窮地に陥った信長でしたが、殿を務めた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らの働きによって辛くも退却に成功しました(金ヶ崎の戦い)。
この裏切りについては、信長も当初理由が分からず「虚説ではないか」ととりあわなかったと言いますが、現在でもこの裏切りの理由は不明な点があります。
よく言われるのが、朝倉氏との同盟関係を重視したとの説ですが、これは江戸時代の創作物が由来となっており、学術的にはこの裏切り以前における朝倉氏との同盟関係の存在は亮政・久政の代を通じて否定されています。ただし、この問題に関しては、前述のように、長政が六角氏から自立した際に義景と従属関係を結んだことによって初めて両氏の関係が結ばれたとする説も出ていて、いまだにはっきりしない部分があるのです。
敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政がいたという記録は残っていません。そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もあります。
一方で、この戦い自体が若狭国の支配を巡って義景と対立を深めていた足利義昭による討伐の命令に基づくものであったとする説もあって、将軍の命令には従わざるを得なかった信長からすれば長政の行動は理不尽であったとする見方もできます。
同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田・徳川連合軍と戦います(姉川の戦い)。結局この戦は、織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。なお、当時浅井軍の足軽だった藤堂高虎は姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し武功を上げて、長政から感状を送られています。
姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた三好三人衆や本願寺が挙兵し(野田城・福島城の戦い)、反信長の意志を表します(信長包囲網)。
9月、朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強めて(志賀の陣)、坂本において森可成や織田信治らを討ち取ります。しかし、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行ったため、12月に信長と勅命講和することになってしまいます。
その後、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年(1571)9月に信長の比叡山焼き討ちにあい、壊滅状態となりました。
武田信玄との連携
元亀3年(1572)7月、信長が北近江に来襲します。長政は朝倉義景に援軍を要請し、義景は1万5,000の軍勢を率いて、近江に駆けつけました。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続きますが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣勢、依然として苦しい状況でした。
同年9月、将軍・足利義昭の要請に応える形で武田信玄がやっと甲斐国を進発。信玄はこの時、長政・久政親子宛に「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候 」という書状を送っています。
同年10月、宮部城の宮部継潤が羽柴秀吉の調略で降伏、その後信玄の参戦を機に北近江の信長主力が岐阜に移動した隙を突いて、虎御前山砦の羽柴隊に攻撃を仕掛けるも撃退されてしまいます。その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破し(三方ヶ原の戦い)、三河に進みます。
同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国してしまいます。信玄は義景の独断に激怒、再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送りますが、義景は応じず、黙殺。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたとされますが、翌年2月には進軍を再開、家康領の野田城を攻め落とします。しかし、信玄の急死で、武田軍は甲斐に退却。これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になりました。
浅井氏の滅亡
天正元年(1573)7月、信長は3万の軍を率いて、再び北近江に攻めかかります。長政は義景に援軍を要請し、義景は2万の軍で駆けつけますが、織田の軍勢が北近江の城を落とし、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退を始めてしまいます。
撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、そのまま越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、取って返して全軍を浅井氏に向けて進軍します。
浅井軍は信長の軍によって、一方的に勢力範囲を削られ続けました。そして、ついに本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が織田軍に包囲されます。信長は不破光治(同盟の際の使者)、さらに木下秀吉(豊臣秀吉)を使者として送って降伏を勧めましたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂しました。
8月27日、父の久政が自害し、9月1日には長政も自害。享年29。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺にあります。『信長公記』では、8月28日に長政は小谷城内赤尾屋敷にて自害したとされるが、29日に出された長政の片桐直貞に対する感状が発見されており、命日は9月1日であることが判明しています。この感状では、長政は同年7月末に信長主導で行われた改元後の元号「天正」ではなく、足利義昭が主導して改元された前の元号「元亀」を使用しています。これを信長に対する抵抗の意と解釈する説もあります。
天正2年(1574)正月、『信長公記』には、信長が内輪の宴席において、薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の頭蓋骨を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとあります。『浅井三代記』でも、「長政の首と義景の首とを肉をさらし取朱ぬりに被レ成」(長政と義景の首から肉を綺麗に取り除いて朱塗りにされ)安土の翌年の正月の礼に参上した大名衆へ「御盃の上に御肴にそ出にける」(宴会の酒を飲む際の楽しみとして出された)と書かれており、漆塗りにされた頭骨が披露されたと考えられています。ただ、いずれも髑髏杯にして信長が酒を飲んだとは書かれていないため、現在では髑髏杯は作り話だと言われています。
なお、長政の娘であるお江は徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍の徳川家光を産んでいます。そのため外祖父にあたることから、死後の寛永9年(1632)9月15日に従二位・中納言を追贈されました。
浅井長政の血脈その後
長政の血脈は、お市の方の産んだ3人の娘によって受け継がれます。
長女、淀君は後に豊臣秀吉の側室となり跡継ぎの秀頼を産んでいます。ただ、豊臣家は大坂の陣で滅亡してしまいました。
次女の初は、京極家に嫁ぎました。夫の京極高次は関ヶ原の戦いで東軍につき、手柄を挙げています。その結果、初代小浜藩主になりました。そして末っ子のお江は、江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠に嫁ぎ、3代将軍の徳川家光、後水尾天皇の正室で明正天皇の母となる徳川和子を産みます。
こうして、浅井家の血筋は母方とはなりますが現在まで受け継がれています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。