筒井定次(2/2)改易大名〜藤堂高虎の影に隠れた伊賀上野城の最初の城主
筒井定次
文献によれば大坂冬の陣の際、大坂城から放たれた矢に筒井家で使われているものがあったということが、内通を疑われた理由だそうです。
筒井家は定次の従弟に当たる筒井定慶が継ぎ、大和郡山城1万石を家康から与えられました。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方に大和郡山城を攻め落とされ、定慶は隠棲、もしくは切腹したと伝えられています。これにより、定次流の筒井氏は消滅しました。なお、他の筒井氏一族は現在まで続いています。
筒井定次が築城した伊賀上野城とは
筒井定次の生涯とは切っても離せない伊賀上野城は、標高184mほどの丘にある平城です。もともとは平清盛ゆかりの平楽寺がありましたが、織田信長の天正伊賀の乱の際に伊賀勢の敗北とともに焼失しました。織田家の家臣である滝川雄利がその跡地に砦を築き、その後、筒井定次が平楽寺跡近辺の台地に築いたのが、伊賀上野城です。
伊賀上野城は大阪の豊臣家を守るために建てられた城で、定次は丘の頂上を本丸として、東寄りに三層の天守を建て、城下町は古くから開けた北側を中心にしました。ちなみにこの天守は寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されています。現在は天守跡に「筒井天守跡石碑」がひっそりと建っているほか、当時の石垣が一部残されています。
定次の次の藩主である藤堂高虎は「築城の名手」として知られています。高虎は定次時代の御殿などを再利用しつつ、城を西に拡張しました。城下町も南側に移しています。慶長16年(1611年)には高さ約30mにも及ぶ高石垣が完成。現在でも残された石垣は迫力満点で、見所の一つとなっています。
徳川家康に仕えた高虎の目的は打倒豊臣。伊賀上野城も大阪を攻めるための城として作り変えられました。
大規模改修の結果、5層の天守閣が誕生するはずでしたが、建築中の1612年(慶長17年)に台風により崩壊してしまいます。1615年(元和元年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したこともあり、天守は再建されずに終わりましたが、外廓には10棟の櫓と長さ約40mという巨大な渡櫓(多聞)をのせた大手門、御殿などが建設されました。
ちなみに現在の伊賀上野城には3重天守がありますが、これは地元の政治家である川崎克氏が支援者の協力を得ながらも私財をなげうって復興資金を調達して建築。昭和10年(1935年)に完成した「模擬天守」です。木造三層の大天守と二層の小天守からなり、「伊賀文化産業城」と名付けられましたが、その美しい姿から「白鳳城」とも呼ばれています。
内部は伊賀上野城の歴史がわかる展示物に加え、藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領したという黒漆塗の兜や、筒井定次時代の本丸跡から出土した陶芸作品などが展示されています。
筒井定次の記事を読みなおす
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。