お市の方(1/2)戦国を代表する美女
お市の方
戦国時代、戦国大名や主君と家臣間での政略結婚は外交上で重要な施策として機能していました。特に嫡男と近隣大名の娘は数多く、織田信長と斉藤道三の娘・帰蝶や松平信康(徳川家康の嫡男)と信長の娘・徳姫などの例があります。信長の妹として生まれたお市の方も政略結婚として嫁ぎ、夫のお裏切りで落城を経験するなど波乱万丈な生涯を送り、最後は自害となった彼女の生涯を紹介します。
誕生と前半生
お市の方は、別名が幾つかあります。
後に嫁いだ浅井長政の継室だったことから「小谷の方」「小谷殿」とも称されます。名前については、通説では「於市」となっており、「お市姫」(お市御料人)ともいうとされていますが、『好古類纂』収録の『織田家系譜』には「秀子」という名で記されていますが、この記事では「お市の方」で統一します。
実は、前半生についてはほとんど記録がないため、不明点が非常に多くなっています。
実名も一次史料には特に見られず定かではないのが現状です。生年については、通説によると天文16年(1547)に尾張那古野城内で生まれたとされています。
織田信長の妹(または従妹という説もあります)で、信長とは13歳さだったと言われています。両親についてもはっきりしておらず、今主流となっている説では、父は織田信秀だと言われ、これが本当であれば五女となります。母は土田御前とされていますが、違う可能性もあってはっきりしません。もし、土田御前が生母であれば信長だけでなく信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉になります。
浅井長政との結婚
お市の方と浅井長政が結婚したとされる時期についてはいくつかの説があります。以前は永禄7年と考えられてきましたが、同8年12月に「六角承禎の命を受けた和田惟政が織田・浅井両家の縁組に奔走したものの、長政側の賛同を得られずに一度頓挫した」という話もあり、実際には次の機会となる永禄10年(1567)9月、または永禄11年(1568)早々]の1月から3月頃ではないかとされています。
このとき同10年9月に長政側から急ぎ美濃福束城主・市橋長利を介して信長に同盟を求めてきたとされていて、この縁談がまとまり、その結果お市の方が浅井長政に輿入れしたということになっています。
この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結びます。なお、同時期に長政は主家である六角家臣・平井定武の娘との婚約がなされていたが、お市の方との婚姻により破談となっています。
その後、長政とお市の方との間に3人の娘をもうけます。(のちの淀君・お初・お江の方)この時期、長政にはすでに少なくとも2人の息子がいたたことがわかっていますが、いずれもお市の方との間にできた子ではなかったと考えられています。
同盟関係の破綻と小谷城落城
元亀元年(1570)、信長が浅井氏と関係の深い越前国(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶してしまいます。
浅井家も、朝倉家と織田家、どちらにつくか紛糾したとも言われますが結果的に朝倉家を選びました。
浅井家と織田家の友好関係は壊れてしまいましたが、反面結婚ではあったものの、長政とお市の方の夫婦仲は良かったとされています。
永禄13年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになり、緊張関係が生じた時でも、娘を出産したことから夫婦間は円満であったように思えますが一方で、末娘の江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあります。
延宝7年(1679)に成立した『安土創業録』(蓬左文庫所蔵)では、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、お市の方は岐阜でお江を出産したという話が残っています。
長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害します。
お市の方は3人の娘「茶々」「初」「江(江与)」と共に藤掛永勝によって救出され、織田家に引き取られます。
その後は、従来の説ではお市の方と三姉妹は伊賀国の兄・信包のもとに預けられて庇護を受けていたとされてきましたが、近年の研究成果では、お市の方と三姉妹は信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたという説もでてきています。織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は信長の岐阜城へ転居することになります。
姉川の戦い
織田信長は、足利義明を旗印に上洛すると天皇・将軍への奉仕を大義名分にして畿内周辺の大名・国衆たちに上洛参集を求めました。
元亀元年(1570)4月に若狭武藤氏討伐を名目に(実際は朝倉義景の領国越前への侵攻)信長が軍勢を率いて進軍するも、同盟関係にあった北近江の浅井氏が朝倉氏に加勢。
織田軍の背後を襲います。挟撃される危険で劣勢となった信長は撤退。家臣たちも「金ヶ崎の退き口」を経て退却しました。
京都に帰還した信長は軍を立て直し、反撃の準備を整えます。朝倉義景は敦賀に留まり、5月11日に朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進めました。朝倉軍・浅井軍は南近江まで進出して六角義賢とも連携し信長の挟撃を図ったが、この連携は失敗。信長は千草越えにより5月21日に岐阜へ帰国しました。六角軍は6月4日、野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗戦。6月21日、信長は虎御前山に布陣、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀たちを使い、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き討ちに。6月24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣します。
ここで徳川家康が織田軍に合流。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となりましたが、6月28日未明に姉川を前に、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かいました。
結果的に先に朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍も退却。織田・徳川連合軍の勝利となりました。合戦場跡周辺には「血原」や「血川」という地名が残っており、当時の激戦振りを窺わせるものだと言われています。
信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃し、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退しています。ほどなくして横山城は降伏、信長は木下秀吉(後の豊臣秀吉)を城番として横山城に入れました。
織田信長亡き後
信長死後の天正10年(1582)、柴田勝家と羽柴秀吉たちが信長亡き後の後継者を決める清洲会議を開催します。一説では、このとき秀吉はお市の方を望んでいたとも言われますが、結果的に柴田勝家と再婚することとなりました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。