築山殿(瀬名姫)(1/2)徳川家康の正室の最期とは

築山殿(瀬名姫)

築山殿(瀬名姫)

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人物記
名前
築山殿(瀬名姫)(生年不詳年〜1579年)
出生地
静岡県
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戦国時代は武将の活躍に目が行きがちです。しかし、女性もその血筋や立場・才覚によっては夫に負け劣らずの活躍を見せたり、名を残したりすることがありました。戦場には出なくとも、嫁ぎ先で影響力を発揮したのです。名を残した数少ない女性の1人に、築山殿がいます。徳川家康がまだ松平元信だった頃に結婚し、長男を産むも殺害される生涯を送りました。どんな女性だったのでしょうか。

築山殿の誕生

父は関口親永(氏純とも言われています)、母は今川義元の伯母とも妹ともいわれており、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる血筋を持っていました。のちに夫となる徳川家康よりも2歳くらい年上、低くみても同年齢くらいだったのではないかと言われています。

母は『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図の中では井伊直平の娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に降嫁したとされています。この話が事実であれば、井伊直盛とは従兄、井伊直虎は従姪に当たることになります。

現在の大河ドラマなどでは、「瀬名姫」という名前で登場することも多い築山殿ですが、特に瀬名姫という名前が記録に残っているわけではないため、この呼び名についても不明点が残ります。
生まれた年についても同様で、現時点でははっきりとしていません。通説では天文8年(1539)から天文9年(1540)にかけて生まれたのではないかという説が一般的です。

築山殿の結婚と出産

築山殿は、弘治3年(1557)正月15日、今川家の人質として駿府にとどめ置かれていた松平元信(後の徳川家康)と結婚します。徳川家康は三河国岡崎城の城主でもあり、今川義元は自分の血縁である築山殿と姻戚関係を結ぶことで、三河国の支配権を維持しようする目論見もありました。
築山殿は永禄2年(1559)に長男の松平信康を産み、さらに永禄3年(1560)には長女の亀姫を出産。正室として世継ぎを産み、その立場を盤石にしていきます。

築山殿は正室として嫡男の信康を産みましたが、決して2人の夫婦仲はいいものではありませんでした。
家康が今川家の人質という立場にあったこと、何より築山殿が今川家の縁戚であったこともあり、どこか築山殿が夫の家康を低く見る傾向があり、その態度に家康も我慢するうちに関係が冷え切っていったと言われています。反面、家康は生涯を通じて多くの側室を持つこととなりました。

立場の変化

永禄3年(1560)5月19日に桶狭間の戦いが起こり、築山殿の伯父、今川義元が討たれてしまいます。家康は主君が討たれたことにより、岡崎に帰還することになります。
さらに悪いことに、永禄5年(1562)3月には築山殿の父・親永が娘婿である家康と織田信長と同盟を結んだ事によって今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害しました。

築山殿は、石川数正が駿河に来て今川氏真を説得し、鵜殿氏長・鵜殿氏次と築山殿母子との人質交換をすることで、駿府の今川館から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移りました。
しかし、居住したのは岡崎城内ではなく城外の現在の西岸寺辺りにあった寺院です。『家忠日記』における築山殿を示す敬称が正室を指す「御前様」ではなく、「信康御母様」だったことから、この時点で今川氏との手切れのために築山殿が離縁されたとも言われています。

永禄10年(1567)、息子の信康と織田信長の長女・徳姫が9歳同士で政略結婚することになります。
元亀元年(1570)に信康が嫡子として岡崎城に移された際に、築山殿も信康の生母として岡崎城に入ることになりました。

当時の家康は正室である築山殿には見向きもせず、側室との関係ばかりが深まる事態となっていました。その側室の中には、築山殿の侍女「お万」という女性もおり、彼女が家康の子を身ごもったと知った築山殿は激怒。妊娠したお万を身ぐるみ剥がして庭先で鞭を打ち付けながら追いかけ回したという話も残っています。
家康は身分の低い町人の女性や下級武士の娘などを多く側室として迎えていますが、これは築山殿に対する当てつけであったとも言われています。

立場が悪くなっていく築山殿

築山殿が移り住んだ岡崎城には、家康はほとんど寄り付かず、家康の母と徳川信康に嫁いできた織田信長の娘・徳姫と一緒に暮らしていました。当時の徳川家康は、浜松城を手に入れたことでほとんどの時間を浜松城で過ごしており、逆に岡崎城には訪れていません。築山殿にとっては息が詰まる夫がいない反面、周囲の家臣や次女は決して信用することのできない敵だらけの状況でした。さらに追い討ちをかけるように、築山殿の両親が今川氏真の手により殺害されただけでなく、夫の家康は浜松城で毎年のように側室との間に子が生まれる状態。正室としても、実家の後ろ盾という意味でも築山殿の立つ瀬はありませんでした。

徐々に築山殿の立場が弱くなっていく中、唯一の希望が息子で嫡男だった信康の存在でした。
その一方で信康の正室である徳姫のことは気に入っていませんでした。築山殿にとっては、叔父・今川義元を討った織田信長の娘である徳姫を目の敵にし、日頃から篤姫に対して冷たい仕打ちをしていたと言われています。
さらに、信康と徳姫の間には、2人の女児しか生まれておらず、嫡男となる男子が生まれていないことを理由にし、徳姫に嫌味を言うだけでなく息子・信康に側室を持つことを勧めます。さらに悪いことに、このとき側室となったのが織田家の仇敵であった武田家の家臣で浅原昌時の娘です。実際に信康は側室を寵愛したことで、徳姫との夫婦仲に大きな亀裂が生じます。

徳姫の出自は、織田信長と側室・生駒の方の間に生まれた長女です。生駒の方は、信長に大変寵愛されており、徳姫も父の信長に愛されて育ったとされています。築山殿と同じで、プライドの高い、我慢ができない女性でした。

度重なる築山殿の嫌がらせに腹を立てた徳姫は、徳川信康と築山殿への不満を誇張も交えて父である織田信長に訴え出るという手段に出ます。

このとき、徳姫は夫・信康の悪行や築山殿の行動を、感情のままに書き連ね、挙句の果てに、「信康と築山殿の2人が父・信長を裏切って武田家と密通している」とまで書いて送りつけたのです。徳姫付きの侍女が、「武田勝頼から築山殿宛の密書を盗み見た」と話したことを受けて、徳姫は築山殿が武田勝頼と内通していると主張しました。

築山殿の最期

天正7年(1579)、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送ったことから、信長が激怒。この訴状がきっかけとなり、信長は家康に長男・信康の処刑を命じたと言われています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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