上杉憲政(2/2)関東管領

上杉憲政

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人物記
名前
上杉憲政(1523年〜1579年)
出生地
群馬県
関連する城・寺・神社
箕輪城

箕輪城

関係する事件

永禄3年(1560)、上杉憲政の旧臣から要請を受け長尾景虎と上杉憲政は関東へ侵攻します。越後から上野国へ入ると最初に沼田城(現在の群馬県沼田市)へ侵攻します。この長尾家の威勢を見た関東各地の大名は長尾家の下に馳せ参じます。一方、長尾家に駆け付けず北条家に付いた大名は長尾景虎に滅ぼされていきました。

侵攻された北条氏康は小田原城で籠城し抵抗します。翌年、上杉憲政を擁した長尾景虎は小田原城を囲みました。この時、北条氏康は甲斐の武田家に要請し信濃(現在の長野県)から越後国へ侵攻する事で牽制するよう要請します。この武田家の侵攻に長尾景虎は危険を感じ攻城を中止します。

この攻城を中止した直後。永禄4年(1561)3月、鎌倉鶴岡八幡宮で上杉憲政は長尾景虎に関東管領と上杉の姓、同家の家系図、伝来の家宝を譲渡します。ここに長尾景虎は上杉姓を名乗り、後に上杉謙信となりました。上杉憲政は剃髪し光徹と号し隠居しました。

御館の乱とその最期

さて上杉謙信を養子とし関東管領の座も渡した上杉憲政。憲政がその後、歴史の上に登場するのは謙信が亡くなった後です。関東管領を譲り、隠居した約20年後。

天正6年(1578)上杉謙信が亡くなりました。謙信が亡くなると上杉家は二人の養子によって当主の座を巡って争うようになります。
1人は上杉謙信の姉の子で養子とした上杉景勝。もう1人は北条氏康の7男で謙信の養子となった上杉景虎。
この二人を担ぎ上げて上杉家は真二つに割れました。上杉憲政は上杉景虎の側に付きます。争いは当初拮抗していましたが、次第に上杉景勝の側に越後の国人衆や武田勝頼が付き景虎側は追い込まれていきます。上杉景虎は憲政の居城、御館に籠り抵抗しましたが窮地に立たされました。

そこで天正7年(1579)、憲政は景虎の嫡男道満丸と和睦の交渉の為に春日山城へ訪れました。ところが2人は景勝の陣所で討たれて(或いは囲まれて自刃したとも)亡くなります。享年57。上杉憲政は関東管領にありながら周囲の大名と抗争を続けた一生でした。墓は上杉景勝の転封により福島県米沢の照陽寺にあります。

平井城

平井城は現在の群馬県藤岡市にあった城です、平井城ないしは平井金山城と呼ばれていました。平地部分に本城があり、背後の山に詰め城である金山城のある広大な城でした。永世9年(1512)もしくは大永年間(1520年代)ころから関東管領であった山内上杉家の拠点となったと考えられています。上杉憲政は天文15年(1546)河越夜戦で北条家に敗れるとこの城に入り抵抗しました。

天文21年(1552)上杉憲政は北条家に攻められ越後に逃れます。そして長尾景虎(上杉謙信)に擁立され永禄3年(1560年)に再び戻ってきます。ところが景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城(或いは北条家が使わせないよう城郭を破壊したとも)となりました。
現在は群馬県県指定史跡として登録され、整備されています。

御館と春日山城

御館の乱の舞台となった御館。
そもそも越後国の国府は新潟県上越市直江津駅付近にあり、上杉館(至徳寺館)と呼ばれていました。上杉館が出来たのが平安末期から鎌倉にかけての頃です。この上杉館は海にも近い平地に建てられました、攻められれば抵抗のしようもありません。

そこで南北朝時代に建てられたのが山城の春日山城です。春日山城の名の由来は春日山に建てられ、この春日山は奈良の春日大社から分霊した春日神社がある事からでした。春日山城は越後国守護代長尾家の居城となります。この居城の城主となったのが長尾景虎(上杉謙信)でした。長尾景虎は上杉憲政が越後に逃れて来ると上杉館の近くに屋敷を建てます、この屋敷が御館でした。そして上杉謙信亡き後、山上の春日山城に籠る上杉景勝と平地の御館に籠る上杉景虎とに分かれて争われます、御館の乱です。
この乱で上杉憲政は亡くなり、御館も焼失しました。
御館のあった場所は現在、御館公園として市民の憩いの場所となり、御館のあった場所として石碑が残っています。

雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌舐めたか

雲洞庵(うんとうあん)と関興寺は、どちらも新潟県南魚沼市にあるお寺です。

雲洞庵は上杉家の祖、藤原北家の始まりである藤原房前の母が建てたお寺でした。室町時代中期、関東管領だった上杉憲実が曹洞宗寺院から僧を招き現在の場所に再興します。この寺は上杉景勝とその家臣だった直江兼続が幼少期に学んだ寺としても知られていました。

さてこの寺の赤門からの参道の下には法華経の一石一字が書かれた石が埋められており、踏みしめて参詣することで御利益があるとされてきました。そこから「雲洞庵の土踏んだか」という言葉が生まれます。
関興寺は臨済宗(禅宗)のお寺です。開創は応永17年(1410)、覚翁祖伝和尚によって建てられました。覚翁和尚は足利尊氏の従弟、初代関東管領となった上杉憲顕の子です。
関興寺は関東管領上杉家の菩提寺として上田長尾氏や鎌倉公方の帰依もあり栄えましたが、度々火事や戦災に遭いその都度復興してきました。

しかし御館の乱でも焼失してしまいます。慶長5年(1600)上杉景勝の米沢に移封により米沢で再建、しかし再度の火災により現在の南魚沼市に移りました。

さて関興寺には御館の乱の際の逸話が残っております。御館の乱が起こった際、住職は上杉氏寄進の大般若経600巻を味噌桶の中に埋め戦火から経文を守ったと言われています。これにより「関興寺の味噌舐めたか」(大般若経600巻の埋まっていた味噌)という言葉が生まれました。

これにより両寺の有難いお話として現在でも言い伝え「雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌舐めたか」という言葉が残っています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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