北条氏康(1/2)相模の獅子
北条氏康
あまたの大名が争った戦国時代の中頃。東日本では越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄、或いは駿河の今川義元などが覇を競っていました。そしてこれらの大名に対等に渡り合った大名が伊豆にいます、北条氏康です。氏康は新興勢力である北条家を率いながら、領国安定の為の民政に力をいれつつ、勢力を伸ばさんとしていました。そこで今回は関東の雄、北条氏康について見ていきたいと思います。
(後)北条氏とは?
そもそも北条氏康を出した北条氏。北条氏、或いは後北条氏は氏康の祖父、北条早雲を祖としています。近年の研究で北条早雲は政所執事(室町幕府の訴訟を担当する役)伊勢氏の支流、備中伊勢氏に生まれた伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)と言われています。9代将軍足利義尚の申し次(窓口)や奉公衆を勤めていましたが、姉の嫁ぎ先である今川家に内紛が起こるとその調停などで都と関東とを行き来をするようになりました。ところが一説に、借金問題で京に居づらくなり東国に下ったとも言われています。そして興国寺城を中心に伊豆の国人を従え、次第に周囲の領地を切り取っていくようになりました。
北条氏康の父、早雲(伊勢新九郎)の嫡男である北条氏綱のころから伊勢氏から北条氏に姓を変えるようになります。これは京から下って来た伊勢新九郎を、関東武者たちが異端視した事から鎌倉幕府執権の北条氏にあやかり改姓したと言われています(改姓の理由については諸説あり)。
こうして京の幕府に仕えていた伊勢氏の庶流が関東に下り、北条氏へとなりました。なお現代では鎌倉幕府の執権北条氏と区別する為、後北条氏とも呼ばれています。
誕生から家督相続
永正12年(1515)、北条氏康は北条氏綱の嫡男として生まれます。まだこの頃は北条姓が定着していないので従来の伊勢姓を用い伊勢伊豆千代丸と呼ばれました。3歳の頃に伊勢宗瑞(北条早雲)から太刀などを授けられ後継者として目されるようになります。
15歳の頃に元服、この時から氏康も北条姓を使うようになりました。初陣は享禄3年(1530)、扇谷上杉家の当主上杉朝興と戦い大勝しています。
天文10年(1541)、氏康が25歳ごろに父の氏綱が死去。これに伴い北条家の当主となります。この当主となった当時、北条家は相模、伊豆(現在の神奈川県)の他、武蔵国の一部などを支配下に置いていました。西を向けば、駿河の今川家や甲斐の武田家、東を向けば関東平野を拠点とする山内、扇谷の両上杉家などと隣接しています。新興勢力の北条氏康はこれら勢力と攻防を繰り返していきます。
室町時代の関東
さて、北条氏康が生まれた伊豆地方。伊豆地方も含めた関東は室町時代、幕府を興した足利尊氏が4男の足利基氏を鎌倉公方(当時の名称は鎌倉殿など)とし関東の統治を任せました。基氏の子孫は代々鎌倉公方を世襲し関東10ヶ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、伊豆、甲斐)を治めるようになります。
さらに鎌倉公方は拠点を鎌倉から古河に移し、古河公方とも呼ばれるようになりました。
この鎌倉公方を補佐したのが関東管領です。関東管領は上杉家が世襲するようになりました。鎌倉公方は代を重ねるごとに室町幕府と対立するようになり、更に補佐をしてもらっているはずの関東管領の上杉家とも対立するようになった事から次第に力を失います。
関東管領の上杉家も嫡流から扇谷上杉家が分かれ南関東に勢力を伸ばします。反対に上杉家の嫡流は鎌倉の山内に居を構えた事から山内上杉家となります。
この山内上杉家の上杉憲実は新興勢力の北条家を危険視します。度々北条家の侵攻を受け、内部分裂した扇谷上杉家と和解し北条家に対処する事を考えました。
河越夜戦
天文14年(1545)、北条氏康は西の隣国、駿河(現在の静岡県)の今川義元と争っていました。今川側から和解の提案を受けましたが、氏康を拒否します。すると今川義元は北条家の東に位置する関東管領の山内上杉憲政などと連携し東西から北条家を圧迫する事を画策しました。
最初に今川家が西側から北条家に侵攻します。氏康は大急ぎで西の今川に対処すべく急行します。
すると今度は東側から関東の山内、扇谷上杉を中心とした大軍が侵攻してきます。山内上杉を中心とした関東の軍は義弟北条綱成が守る川越城を囲みました。
北条氏康は東西から攻められ絶体絶命の危機に陥ります。氏康はここで事態の解決を模索しました。まず西側の今川家の問題を解決するよう動きます。甲斐の武田家に仲裁を頼み、一部領地を割譲することで今川家と和睦にこじつけました。
西側に位置する今川家の問題は解決しましたが、東側は悪化の一途をたどっていました。川越城を包囲している山内上杉氏は、関東の他の大名にも声を掛け連合軍を形成します。それまでは北条と協調してきた大名までもが連合軍の側につき、連合軍の兵は8万にまで膨れ上がります。8万の連合軍に包囲され、河越城は約半年に渡って耐えました。
今川家と和睦した氏康は、包囲されている川越城へと向かいます。しかし北条家の軍はかき集めても1万ほどでした。
この兵力差です。城を囲んでいる連合軍は自らが大軍であるという事におごっていました。そこで氏康は城を囲んでいる連合軍に和睦の提案を行い、連合軍の油断を誘います。翌天文15年(1546年)の事です。
氏康は川越城の内部と連携して、連合軍に夜襲をかけました。和睦の直前であった連合軍は油断し、北条軍の夜襲で崩壊しました。1万が8万の大軍に勝ったのです。この勝利から氏康は関東平野へ巻き返しを図っていきました。
この北条氏康の戦いは「川越夜戦」と呼ばれ少数の軍が大軍を破った稀有な例に挙げられました。毛利元就の「厳島の戦い」、織田信長の「桶狭間の戦い」と並んで「日本三大奇襲」(日本三大夜戦)に挙げられています。
関東の攻防から甲相駿三国同盟へ
周囲を敵に囲まれ、河越夜戦の奇襲で危機を乗り越えた北条氏康。氏康は危機を脱すると東の関東への巻き返しを図ります。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。