尼子詮久(尼子晴久)(2/2)山陰の雄
尼子詮久(尼子晴久)
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- 人物記
- 名前
- 尼子詮久(尼子晴久)(1514年〜1561年)
- 出生地
- 島根県
ところで周辺の勢力と争っていた尼子詮久は同時に国内の統制強化に務めます。独立した存在であった杵築大社(現・出雲大社)が遷宮を行う際に介入しようとします。また日御碕神社に支援を行い、同勢力が有する宇竜港を使い貿易を積極的に行っています。飯梨川流域からは、尼子家支配時代の朝鮮及び明国製の陶器・鏡などが発掘されている事から積極的に貿易を行っていたことを伺えます。
天文20年(1551年)、大内義隆が陶晴賢の謀反により死去します、尼子家の西に位置する大国大内家は陶晴賢指導の下に運営されることになりました。
そのような政治環境の変化が起こる中、天文21年(1552)室町幕府13代将軍足利義輝より、山陰山陽8ヶ国の守護大名及び幕府相伴衆に任ぜられます。また同じ年、朝廷から従五位下修理大夫に任じられました。京の都は尼子家を中国地方の有力大名と認識しました。
この室町幕府、朝廷からの叙任は尼子詮久の立場を強くし、陶晴賢に擁立された大内家や周辺の大名、国人と小競り合いを繰り返します。更に同じころ。尼子家の精鋭隊である新宮党を率いていた叔父尼子国久らを謀殺しています。尼子国久は尼子詮久の祖父経久の次男として経久の領国拡大に貢献してきました。ところが国久に率いられた新宮党は次第に増長し詮久の持つ裁判権などにも口を挟むなど出雲国で大きな力を持っていました。このような一族に支えられての体制は中世的な武家の形でしたが、同時に当主の発言権に限界がありました。そこで粛正を謀る事で尼子詮久は自らを頂点とした中央集権化を進めます。
毛利家との争いと死去
大内家に陶晴賢が反乱を起こした4年後、弘治元年(1555)、大内家を支配していた陶晴賢が、毛利元就によって厳島で敗れて自害します(厳島の戦い)。
さらに厳島の戦いから2年後、弘治3年(1557)、陶晴賢により擁立されていた大内義長が毛利元就に追い詰められ自害しました。
大内領の大半が毛利領になると、陶晴賢が起こした反乱以降、混乱した周防国長門国(現在の山口県)が毛利家支配の下に安定しました。そこで毛利家は尼子領に侵攻するようになります。毛利元就は因幡国(現在の鳥取県)や美作国備中国(現在の岡山県)など尼子領周辺の大名国人を取り込みます。
永禄元年(1558年)以降、尼子領である出雲国や美作国、備中国、因幡国などすべての領土が侵攻される対象となり最前線となりました。尼子詮久は抵抗し一進一退をつづけました。
このような激しい戦いの中、永禄3年(1561)尼子詮久は月山富田城の中で急死しました、享年47。尼子詮久が亡くなると尼子家は詮久の子、尼子義久を当主に据えました。
尼子家のその後
永禄3年(1561)12月、尼子詮久は亡くなりました。
尼子家は詮久の長男義久が継ぎます。ところが詮久が亡くなる事で尼子家内部では動揺が広がりました。また新宮党に代表されるような内部粛清を行ってきた事で家中の不満が爆発し始めます。
この尼子家の動揺を見た毛利元就は度々山陰地方に出兵してきました。そして尼子詮久が亡くなった4年後の永禄8年(1565)。尼子家の居城月山富田城は毛利家により包囲されます(第二次月山富田城の戦い)。毛利家は性急な攻城戦を控え兵糧攻めにしました。すると次第に城内の士気は下がり永禄9年(1566)に降伏しここに山陰の有力大名尼子家は滅びました。
当主であった尼子義久は毛利家に降り、後に毛利家客分から江戸時代には家臣として仕えます。また毛利家に降る事は潔しとしなかった家臣の一部は尼子勝久(尼子経久の次男で新宮党を率い粛清された尼子国久の孫)を擁立しての尼子家再興を図りますが、後に織田豊臣の家臣に吸収されました。また一部の尼子氏の末裔は各地の大名に仕え、水戸徳川家に仕えた尼子氏は幕末尊王攘夷の活動を通して名前が挙がっています。
戦国時代に飛躍した尼子氏。その尼子氏の歴史の中でも尼子詮久は周囲の有力な大名と争いながら室町時代後期を駆け抜けました。
尼子家にゆかりのお祭り
- 戦国尼子フェスティバル
- 「戦国尼子フェスティバル」は1989年から5年に一度、行われるお祭りです。直近では2022年に第7回が行われました。安来市にある月山富田城址を主な会場とし「尼子氏」をキーワードとした武者行列、地域の特産販売、パネルディスカッションを行い在りし日の山陰の雄尼子家を偲ぶお祭りです。
- 鹿野まつり
- さて尼子家が滅んだ後。尼子家再興に尽力した家臣たちがいました。その一人が亀井茲矩です。尼子家の残党は各地を転戦し多くは志半ばで倒れていきましたが、亀井茲矩などは羽柴秀吉の傘下に入り、茲矩は因幡国鹿野城を与えられました。更に江戸時代になると徳川家に接近し鹿野藩の初代藩主となります。この亀井茲矩は行政面や海外貿易で力を発揮し、民からも慕われていました。その鹿野の地で始まったのが「鹿野祭り」です。江戸時代には始まったお祭りで江戸時代初期に一度途絶えましたが文化10年(1813)に再興され、今日まで続いています。現在では鹿野城址にある城山神社で2年に一度春に行われ鳥取県の無形文化財にも指定されています。榊、武者行列、獅子舞、そして各町内にある山車、御輿などの御幸行列が城下を練り歩く絢爛なお祭りです。
月山富田城
月山富田城は日本5大山城に上げられるなど、周囲の自然を利用した難攻不落の城でした。
平安時代の末、保元・平治の時代には城を築いたと伝承にはあります。
鎌倉時代、佐々木家(京極家)が守護として訪れ出雲国を治めました。南北朝時代には山名、京極家とが領有権を争い月山富田城はその中心地となります。明徳3年(1392)、京極家はその一族であった尼子持久を守護代として派遣し、月山富田城の城主となります。ここから尼子6代170年の歴史が始まりました。
尼子家の滅んだあと、桃山時代には毛利家の家臣が派遣され城主となります。関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600)、毛利家に代わり堀尾家が領主となります。堀尾忠晴は山城である月山富田城から海に近い松江城を築城し移ります。ここに月山富田城は廃城となりました。昭和9年(1934)月山富田城は国の史跡に指定され、平成に入ると樹木の伐採や石垣の修理を行い史跡公園として整備されました。
月山富田城は尼子家6代170年の時代の中心地として有名ですが、それよりはるか以前、武士の興った鎌倉時代にはその原型を見せ、江戸時代が始まるまで山陰の中心地の一つでした。現在では訪れる人に在りし日の山陰の中心地としての月山富田城を連想させ楽しませています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。