斎藤道三(1/2)美濃を統一し、織田信長に娘を嫁がせた男
斎藤道三
応仁の乱後、戦国時代になると部下が主人に取って代わる下剋上が当たり前になっていきます。戦国の三大悪人の一角として挙げられる斎藤道三は、出自や前半生についてわかっていない部分もありますが、美濃統一を成し遂げ娘の帰蝶(濃姫)を隣国尾張の織田信長に嫁がせるなど、才と実力のある武将でした。最期は息子に敗れ、戦死した斎藤道三の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
従来の説と新説がある前半生
以前は、明応3年(1494)に山城乙訓郡西岡で生まれたとされてきました。しかし、生年については永正元年(1504)とする説もあり、生誕地についても諸説あります。
『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗、事情によって牢人となり西岡に住んでいたとされています。
道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となりました。
その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗るようになります。
油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称しました。
大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていきます。
『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種の人目を引くための行為を見せるというもので、美濃で評判になっていきました。
行商で成功した庄五郎でしたが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったといわれています。
その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称しました。
勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現し、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至ります。頼芸が兄政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年(1527)8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献しました。
頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530)正月ないし天文2年(1533)に長井長弘を不行跡のかどで殺害、長井新九郎規秀を名乗りました。
この頃、土岐頼純が反撃の機会を窺っていました。
天文4年(1535)には頼芸とともに頼純と激突し、朝倉氏、六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がっていきます。
天文7年(1538)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗りまし。天文8年(1539)には居城稲葉山城(のちの岐阜城)の大改築を行なっています。
だたし、これらの所伝の中には、父新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高いと近年の研究から明らかになりつつあります。
大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物なら、既に父の代に長井氏として活動していたことになるからです。さらに、天文2年6月の文書で藤原(長井)規秀が初めて文書を出しており、それ以前に新左衛門から家督を継承しています。
また公卿三条西実隆の日記にはこの年、道三の父が死去したとあります。同年11月26日付の文書(岐阜県郡上市の長瀧寺蔵、岐阜市歴史博物館寄託)では、長井景弘との連署で主家を重んじる形式となっており、道三が長井長弘殺害の際に長井氏の家名を乗っ取り、長弘の子孫に相続を許さなかったとする所伝を否定するものとなっています。
また、長井長弘の署名を持つ禁制文書が享禄3年3月付けで発給されており、少なくとも享禄3年正月の長弘殺害は誤伝であることがわかっています。しかし、この後天文3年9月付の文書(『華厳寺文書』「藤原規秀禁制」)には道三単独の署名が現れ、それ以降、景弘の名がどの文献にも検出されないことから、この頃までに景弘が引退または死亡したと推定されています。
美濃の国盗り
天文10年(1541)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となり、頼芸と利政との対立抗争が深まっていきます。一時は利政が窮地に立たされたこともありましたが、天文11年(1542)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされています。
こういった行いから落首が作成され、それは「主をきり 婿を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城(主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう)」というものでした。
しかし、織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純(これ以前にその父政頼は死去していたと推定されています)と連携を結ぶと、両者は土岐氏の美濃復辟を名分として朝倉氏と織田氏の援助を得て美濃へ侵攻。
その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純(あるいは政頼も生存し行動をともにしていたかもしれない)は革手城に復帰しました。
天文15年(1546)、もしくは天文16年(1547)5月21日に道三が出した書状には、陣中見舞いとして枝柿五十とともに抹茶を贈られていることが確認でき、道三が実際に茶の湯を嗜み、陣中においても余暇を利用して茶事に興じていたことが窺えます。
天文16年(1547)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込みました(加納口の戦い、ただし時期には異説があります)。一方、頼純も同年11月に急死します。この情勢下で、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548)に娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡子織田信長に嫁がせました。
帰蝶を信長に嫁がせた後の正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐよう(家来)になる」と述べたと『信長公記』に記述が残っています。
この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定しました。
晩年と息子に打たれた最期
天文末年頃、不住庵梅雪から稲葉良通相伝の茶の座敷置き合わせの『数奇厳之図』を伝授されました。この史料から、不住庵梅雪の茶の湯座敷の置き合わせ法が斎藤道三に伝授され、そこから稲葉良通に相伝され、さらに志野省巴に相伝されたという茶の湯の系統が明らかになっています。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。