細川政元(2/2)戦国時代の口火を切った男

細川政元

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人物記
名前
細川政元(1466年〜1507年)
出生地
京都府
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二条城

二条城

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兎に角も山伏信仰などを強く信じていた政元は生涯、信仰の為に女性を近づけなかったと言われています。つまり細川吉兆家の跡取りは生まれません。
そこで足利義稙が将軍に就いた同じ年、九条政基の末子を養子として迎えます、細川澄之です。この細川政元に跡取りが出来ず、養子を迎える事が後々に戦国時代へと突入する原因の1つとなってゆきます。

11代将軍義澄と明応の政変

10代将軍となった足利義稙。将軍に就任した義稙は自らの権威を高める為、軍事行動を起こす事を考えます。周辺の国人や義稙の勢力と敵対関係にある大名の討伐です。細川政元は近畿が不安定な状況の中で行われる討伐に反対し、参加しませんでした。

また先にも述べた通り、足利義稙が将軍に就いた事で不満に思っていた者もいました。日野富子です。この細川政元と日野富子、それに義稙に反発した大名が結託します。そして討伐の為に都を離れていた足利義稙を追い落とすべくクーデターを起こしました、「明応の政変」です。

明応2年(1493)4月22日夜、日野富子と細川政元は決起し、その日のうちに11代将軍足利義澄が誕生しました。日野富子と細川政元は、新将軍となった足利義澄の名の下に討伐軍に参加していた大名達の帰京を命令、動揺した大名達はこの命に従います。足利義稙の下に残ったのは管領であった畠山政長だけでした。

細川政元に擁立された11第将軍足利義澄は河内国で10代将軍足利義稙の勢力と大きく戦い、管領であった畠山政長は自害し、足利義稙は幽閉されます。

この「明応の政変」は、将軍が家臣(細川政元)の都合で挿げ替えられた乱でしたが、同時に室町幕府凋落の象徴、引いては戦国時代の幕開けとも考えられるようになりました。
実際、この11代将軍足利義澄から15代将軍足利義昭まで自力で、或いは室町幕府を支える大名などにより就任した将軍はおらず、大きな勢力を持つ大名に擁立されなければ将軍に就く事は出来なくなりました。

永世の錯乱と政元の最期

細川政元と日野富子が主導したクーデター「明応の政変」、将軍は11代将軍足利義澄となります。細川政元は新将軍である足利義澄と良好な関係とは言い難いですがそれなりに将軍を立て、細川政元主導で10年以上を過ごします。

この間、旧将軍であった足利義稙は幽閉先から京を脱出、殺された管領畠山政長の領地越中に逃れます。そこから将軍への返り咲きを画策。義稙は比叡山延暦寺を陣営に引き込む事に成功しましたが、細川政元は機制を制して延暦寺を焼き討ちにしました。

こうして廃した10代将軍足利義稙の対応をしながら、細川政元は着々と畿内の国人を取り込み自らの配下として力をつけていきました。

ところで細川政元は政治を行いながら(実際は方針を決めた後の実務を家臣の合議に任せながら)、修験道の修行などに没頭しています。

そして養子として迎えた九条家の細川澄之。細川政元は自らの跡継ぎに細川澄之を迎えましたが、細川氏以外から養子を迎えた事に後悔し始めました。そこで細川澄之には丹波国の守護大名に据えながら跡継ぎからは外し、阿波国の細川讃州家より細川澄元を迎えます。さらに細川家の支流である野洲家より細川高国も養子としました。結果、細川政元の養子は3人となります。

ところがこれに反発したのが最初の養子、細川澄之です。細川吉兆家の跡継ぎとして迎えられながら廃嫡された澄之は政元に恨みを抱きました。

そして永正4年(1507)澄之の家来である香西元長、薬師寺長忠と政元の警護役であった竹田孫七によって、細川政元は湯殿で行水をしていたところを襲われ暗殺されました(永世の錯乱)。細川政元、享年42。
日本のいたる所で一族同士がいがみ合い、それがもとで応仁の乱が起こりました。応仁の乱の後も日本全国の混乱は収まりませんでしたが、辛うじて京周辺は細川政元により規律が保たれていました。ところが政元は亡くなります。ここから日本は100年間収拾のつかない戦国時代へと突入しました。

両細川の乱と戦国時代の始まり

細川家のその後
細川政元は最初の養子、細川澄之により殺されました。ところがその澄之もまた2ヶ月後には自害に追い込まれます。
ここで残ったのが二人の養子、細川澄元と細川高国です。2人は細川家の家督を巡って将軍家も巻き込み20年以上も争います、「両細川の乱」です。最終的に細川高国は討たれ、細川澄元の子細川晴元が残りました。しかし晴元も家臣の三好長慶に追われ細川家は衰退しました。因みに、江戸時代の肥後国細川家の祖となった細川藤孝(藩祖細川忠興の父)、或いは藤孝の三男幸隆が細川家支流の細川上和泉守護家に養子として入ります。また肥後国細川家以外にも管領細川家の支流は各地の大名の家臣として永らえます。
 
足利将軍家
殺された細川政元に擁立された11代将軍足利義澄でしたが、周防の大名大内家の助けを借りた10代将軍足利義稙に追われ近江国六角家を頼り落ちます。京に返り咲いた10代将軍足利義稙は朝廷より将軍に再任されました。再任された将軍は日本史上足利義稙だけです。ここに二人の将軍が存在することになりました。
10代将軍足利義稙と11代将軍足利義澄です。京を追われ六角家を頼った11代将軍足利義澄でしたが、六角家にも不穏な空気が流れます。そこで足利義澄は自らの2人の息子を有力な大名に預けました。
長男の足利義晴は播磨国守護大名赤松義村、次男の義維は阿波国守護大名細川之持(細川澄元の兄)に預けます。
10代将軍足利義稙は最初こそ大内家の武力を背景に将軍に再任されていましたが、大内家が京から去ると没落します。そこで周囲から12代将軍に立てられたのが兄の足利義晴でした。ところが弟の義維はこれに納得が出来ず、義維を支持する大名と共に堺に政権を立て堺公方と呼ばれます。
12代将軍となった足利義晴でしたが、弟の義維と争い京を追われました。更に三好長慶と争うようになります。この12代将軍の子が13代将軍となる足利義輝であり15代将軍となる足利義昭でした。
反対に堺で政権を樹立した足利義維はその後、阿波国に逃れ阿波公方と呼ばれます。この義維の子が14代将軍となる足利義栄でした。室町幕府の将軍であった足利家は混乱を最後まで収拾できないまま、幕府の終焉を迎えます。
 

応仁の乱が起こって以降、あるいはその前後から日本の各地域では争いが絶えなくなりました。京は辛うじて幕府の支配が機能していましたが、細川政元が亡くなると細川家、足利家が入り乱れ京すらも混乱が続くようになりました、戦国時代の始まりです。関東では伊勢宗瑞(北条早雲)が独自の勢力として覇を唱え始めた時期に当たります。

後に中国地方の雄となる毛利元就は10歳、周防の大内家と山陰の尼子家に挟まれ苦労を強いられていました。
甲斐の虎と呼ばれた武田信玄が生まれるのは約15年後、織田信長が生まれるのは約25年後、次の幕府である江戸幕府が誕生するのが95年後。応仁の乱、明応の政変より日本は戦国時代へと突入していきました。

細川政元は愚者か天才

さて後世における細川政元の評価は、どうでしょうか。
クーデターを起こす事で自分に都合の良い将軍を据え権力を手中に収めました。その為に政元は「半将軍」というあだ名が付くほどの存在となりました。

反面で江戸時代に書かれた書物の中には「戦国三大愚人」として数えられています。この三大とは細川政元、今川氏真、大内義隆です。

大内義隆は周防を中心とした強国大内家の当主であり、大内家の全盛期を築いた大名でしたが文化振興に力を注ぐあまり、武断派であった陶晴賢に裏切られ大内家を衰退させます。
今川氏真は桶狭間の戦いで命を落とした今川義元の子で、父の仇を討てずに徳川家康に滅ぼされた今川家の当主でした。

そして細川政元です。政元は権力を掌握する事は出来ましたが前にも述べた通り、山岳信仰を尊び、修験道の修行に勤しみ、愛宕の法を信じました。この為、恐らく生涯において女人を近づけず跡継ぎを儲けませんでした。結果、養子とした細川澄之を中心とした家臣により暗殺されます。これが江戸時代の人には愚人として見られたようです。

単に細川政元が政治家として抜きんでた存在なら「半将軍」、趣味に勤しむ大名なら「愚人」と見られたかもしれません。ですがこの両方を併せ持ち、戦国時代の幕を開けた政元の評価は人それぞれの見方ではないでしょうか。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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