北条早雲(2/2)後北条氏5代の礎
北条早雲
清晃は還俗して義遐を名乗ります(後に義澄と改名)。権力の座に就いた義遐は母と弟の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ宗瑞へ命じたと言われています。これを受けて、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃、伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らがいち早く集まりました。
この事件を伊豆討入りといい、この時期から東国では戦国時代が始まったと考えられています。
軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸ですが、史書では堀越御所から逃亡して武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて、数年にわたり伊勢氏に抵抗しています。
宗瑞は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1498)8月に南伊豆にあった深根城(下田市)を落として、5年かかりようやく伊豆を平定しました。
伊豆を平定する一方で宗瑞は今川氏の武将として、明応3年(1494)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻、中遠まで制圧しています。宗瑞は氏親と連携して領国を拡大していきます。
小田原城奪取
明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃、扇谷家の上杉定正は宗瑞に援軍を依頼。扇谷側として宗瑞は荒川で山内家当主・関東管領上杉顕定の軍と対峙するも、定正が落馬して死去したことにより、撤収します。
扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去。宗瑞は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っています。同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取しました。
明応8年(1498)、宗瑞は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功。茶々丸を討った場所については、伊豆国の深根城とする説もあります。今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501 – 1504)には三河にまで進んでいます。
その後、相模方面へ本格的に転進、関東南部の制圧に乗り出すも、伊豆・西相模を失った山内家の上杉顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・宗瑞の政治的な立場が弱くなります。更に、政元が今川氏と対立関係にある遠江守護斯波義寛と顕定の連携を図ったことから、両者の挟撃も警戒されるようになるなど、不利な状況に追い込まれました。
それでも氏親と宗瑞は、今度は義稙-大内陣営に与し、徐々に相模に勢力を拡大。
永正4年(1507)には、管領細川政元が、排除されたことを恨んだ養子細川澄之により暗殺されるという「永正の錯乱」が勃発。直後、政元と結んでいた越後守護上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される事件が起き、政元勢力の変動を機とした足利義稙は永正5年(1508)、大内義興の軍勢と共に義澄を追って京に返り咲きました。
これらの動きにより、氏親と宗瑞に室町幕府からの圧迫が無くなり、宗瑞は為景や長尾景春と結んで顕定を牽制します。
永正6年(1509)以降は今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、相模進出に集中。同年7月、顕定は大軍を率いて越後へ出陣し、同年8月にこの隙を突いて宗瑞は扇谷上杉家の本拠地江戸城に迫りました。
上野に出陣していた扇谷朝良は兵を返して、翌永正7年(1510)まで武蔵、相模で戦っています。宗瑞は権現山城(横浜市神奈川区)の上田政盛を扇谷家から離反させるも、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃、権現山城は落城、三浦義同(道寸)が伊勢氏方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫ったため、宗瑞は扇谷家との和睦で切り抜けています。
一方、同年6月20日には越後に出陣していた顕定が長尾為景の逆襲を受けて敗死、死後に2人の養子顕実と憲房の争いが発生、古河公方家でも足利政氏・高基父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われました(永正の乱)。
三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされています。しかし、傍流は相模の豪族として続き、相模で大きな力を持っていました(相模三浦氏)。
この頃の三浦氏は扇谷家に属し、同氏の出身で当主の義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の新井城または三崎城(現三浦市)を子の義意が守っています。
敗戦から体勢を立て直した宗瑞は、永正9年(1512)8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込みます。宗瑞は鎌倉を占領、相模の支配権をほぼ掌握します。
朝良の甥の朝興が江戸城から救援に駆けつけるも、これを退けさらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築いています。
義同はしばしば兵を繰り出して戦火を交えるが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められます。扇谷家も救援の兵を送るがことごとく撃退されました。
永正13年(1516)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが宗瑞はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せます。激戦の末に義同・義意父子は討ち死に。名族三浦氏は滅び、伊勢氏が相模全域を平定しました。
永正15年(1518)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519)に死去しました。後嗣の氏綱は2年後に菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根町)を創建させています。
玉縄城
永正9年(1512)に伊勢盛時が築いたとされていますが、それ以前から砦か小城があった可能性も挙げられています。城の外堀が柏尾川と直結、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となりました。さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面も持っています。
大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した盛時は東相模の相模三浦氏と争うも、長期戦となり、この際同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が新井城に籠る三浦義同の援軍として挟撃してくることへの備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築きました。
三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえ、また小田原城の守りとしての役割も担っています。北条氏時代には、一門の重要人物が城主として置かれます。初代城主氏時は盛時の実子であるが享禄4年(1531年)に急逝、そのため、氏綱の実子である2代城主為昌が玉縄城に入ったがまだ少年であり、扇谷上杉家との戦いや里見氏の攻撃で焼失した鶴岡八幡宮の再建指揮も兼ねて父である氏綱が小田原城と玉縄城を往復して政務をみています。
その後、氏綱は小田原城に戻ったものの、為昌は天文11年(1542)に急逝。このため、氏綱の娘婿で長く城代として為昌を補佐してきた北条綱成が「為昌の養子」という名目で3代城主となっています。以後、綱成の子氏繁、氏繁の嫡男氏舜、その弟氏勝と4代にわたって城主の地位が継承されました。
現在、玉縄城の本丸跡には学校が建っており、その学校の校門前に安置されている巨岩は玉縄城の遺構の一部だとされています。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。