北条早雲(1/2)後北条氏5代の礎

北条早雲

北条早雲

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人物記
名前
北条早雲(1456年〜1519年)
出生地
岡山県
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小田原城

小田原城

応仁の乱から戦国時代の初期は、幕府の力がより低下して各地の有料武将が台頭してきた時期にあたります。都と関東を行き来したのが北条早雲です。北条5代の礎となり、幕府で足利将軍のそばで申次衆・奉公衆として仕えただけでなく、関東での足掛かりを作った早雲は今川家の家督争いなどにも関係しました。波乱に満ちた生涯はどのようなものだったのでしょうか。早雲の生涯を紹介します。

早雲の諱について

早雲庵宗瑞とされています。姓については、「伊勢」から改めて「北条」を称したのは早雲の死後です。嫡男・氏綱の代になってからであり、自身は北条早雲と名乗ったことはなく、生前の文の署名も伊勢新九郎や伊勢宗瑞などとなっています。後世では一般に北条早雲の名で知られることになります。

諱は長らく不確定で、長氏を筆頭に、氏茂・氏盛などとも伝えられてきたが、現在では盛時が定説となっています。通称は新九郎という名が小説などで使われていますが、この記事では、あえて「伊勢盛時(または宗瑞)」として統一します。

早雲の出自

以前は、一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞てきました。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とするのが定説です。伊勢氏のうち、備中国を所領とした支流で、備中荏原荘または京都で生まれ、荏原荘の半分を領する領主だったことがほぼ確定しています。

幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせてみると、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一であることも決め手となっています。

近年の研究で伊勢盛定が父、京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘が母で、父の盛定は幕府政所執事伊勢貞親の妹婿・8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいたことも明らかになってきています。貞親失脚後に跡を継いで政所執事となった伊勢貞宗とは従兄弟の間柄です。
盛時は若い頃、盛定の所領である備中荏原荘に居住したと考えられています。

荏原荘には文明3年(1471)付の「平盛時」の署名の禁制が残されていて、井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑があります。備中荏原荘からは内藤氏、笠原氏、平井氏、山中氏、井上氏など後北条氏の家臣が多く輩出されているのも特徴です。

幕府の申次衆・奉公衆として活躍

応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発、駿河国守護今川義忠が上洛して東軍に加わります。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を盛定が務めていました。
その縁で盛定の娘で宗瑞の姉(または妹)にあたる北川殿が義忠と結婚したと考えられています。

宗瑞は将軍義政の弟の義視に仕えたとされていますが、近年有力視される康正2年(1456)生まれだとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年 – 1467年)には10歳前後で幼すぎますし、応仁元年(1467)以降、義視は西軍に走っています。

「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481)から文書に現れるようになります。文明15年(1483)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命され、長享元年(1487)奉公衆となります。
京で幕府に出仕している間は、建仁寺と大徳寺で禅を学んでいました。

駿河下向と今川家家督争い

文明8年(1476)、今川義忠が遠江の塩買坂で西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にします。

遠江の政情は複雑で、残された嫡男の龍王丸は幼少、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家督争いで家中が二分されます。
これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌が兵を率いて駿河国に出兵しました。龍王丸派にとって情勢は不利になります。

北川殿の兄弟でもある宗瑞は駿河へ下り、「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させます。上杉政憲と太田道灌も撤兵させました。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓い、家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は北川殿と共に小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せました。今川氏の家督争いが収まると京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆となります。

文明11年(1479)、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出します。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしませんでした。
長享元年(1487)、駿河へ下向した宗瑞は龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めます。
同年11月に兵を起こし、館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺害。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となります。
宗瑞は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられます。

また、同時期に堀越公方足利政知の直臣となって出仕し、伊豆国田中郷・桑原郷を所領として与えられています。しかし、延徳3年(1491)4月の政知の死に伴い、5月には再び申次衆として室町幕府に復帰ししました。
この頃に幕府奉公衆小笠原政清(元続の祖父、元続の子・康広と細川氏家臣・小笠原秀清(少斎)の曽祖父にあたる)の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれています。

伊豆への討入り

堀越公方足利政知の子茶々丸(11代将軍足利義澄の異母兄)が堀越公方を継ぐと、宗瑞は堀越御所を襲撃。勝利して伊豆国の統治を開始します。

享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて占領。成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の関東管領山内上杉家と激しく戦った(享徳の乱)。将軍義政は成氏に代わる鎌倉公方として異母兄の政知を送るも、成氏方の力が強くて鎌倉に入ることもできず伊豆北条を本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになります。

文明14年(1483)に成氏と上杉氏との和睦が成立、政知の存在は宙に浮き、伊豆一国のみを支配する存在となったのです。政知には長男の茶々丸以外に、清晃(のちの足利義澄)と潤童子をもうけていて、茶々丸は素行不良のため廃嫡され潤童子が堀越公方の後継とされます。
延徳3年(1491)に政知が没すると、茶々丸が円満院と潤童子を殺害して堀越公方を継ぎました。

堀越御所襲撃事件と伊豆平定

明応2年(1493)4月、管領細川政元が明応の政変を起こして10代将軍義材(後に義稙と改名)を追放。清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立しました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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