日野富子(2/2)将軍の御台所と母親になった女性
日野富子
さらに戦乱の後半からキーパーソンとなっていた西軍の好戦派、大内政弘と幕府との交渉を取り持ち、大内政弘を四カ国の守護職として所有権を承認し、官位も上げて和睦させて京都から撤収させました。
政弘と対立していた乱の中心人物である畠山義就も、この撤収によって戦う意味がなくなり京都から退去。その見返りとして富子は義就に1000貫文を貸し付けた(一説には贈与とも)といわれています。
意地の張り合いで引っ込みがつかない状況において、それぞれの利害関係を見極め、落としどころをうまく考えた調停であり、富子の提案は出口戦略を見失っていた当事者たちにとっても歓迎すべきものだったといえます。
引く戦乱で幕府の財政は混迷を極め、財源を確保するために行ったのが、「京の七口」と呼ばれる要所に関所を設け、財源に当てることでした。
この施策は人々の不評を買いますが、他に打つべき手がなかったとも考えられます。応仁の乱で京の町は甚大な被害を受け、幕府どころか朝廷の財源も困窮していたためです。
歴史ある神社・仏閣だけでなく、天皇の御所まで焼失してしまい、当時の後土御門天皇は将軍家の邸宅である室町第で10年間、居候するという苦渋に満ちた生活を強いられます。そうした厳しい財政を切り盛りしたのが富子でした。
1474年には義政が隠居し、子の義尚が第9代将軍に就任。まだ9歳だった彼をサポートする後見人として富子は、より深く政治に関わるようになります。
権力者となった富子の元には料足(銅銭)や刀剣などの贈り物が集まります。富子はそれらを私財として蓄え、現代の貨幣価値にして最大で60~70億円ほどの資産を有していたと伝えられます。
当時は大名などの陳情を聞く見返りに金品を受け取ることが、将軍家ではごく普通に行われていました。こうした蓄財を富子は経済的に困窮する朝廷への献金や献品、内裏の修復や新邸の築造、さらには戦乱で焼かれた神社・仏閣などの修復に当て、世の平安を願ったといわれています。
応仁の乱後と最期
義尚は成長すると富子を疎んじ始め、文明15年(1483)には富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し、酒色に溺れていきます。
このため富子は一時権力を失いますが、延徳元年(1489)に六角高頼討伐(長享・延徳の乱)で遠征中の義尚が25歳で没してしまいました。
息子の急死に富子は意気消沈しますが、義視と自分の妹良子の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意しました。
延徳2年(1490)正月に夫の義政が没すると、義材が10代将軍となります。
しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊して、領地を差し押さえました。翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対します。
明応2年(1493)、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子・義澄を11代将軍に就けます(明応の政変)。その3年後、明応5年(1496)に富子は57歳で死去しました。
富子の墓
富子の墓と伝わるのは、京都市上京区の華開院に富子のものと伝わる墓が存在するのと、岡山県赤磐市の自性院常念寺です。
一説では、浦上則宗を頼って岡山に移住してきたと伝えられており、岡山を訪れた日野富子の晩年は孤独で寂しいものだっただけでなく、赤磐で庵を結び、先だった夫や息子の供養をしながら心静かに過ごしたという言い伝えが残っています。
また、後円融天皇の母、崇賢門院を開基とする大慈院(浄土宗)が京都市にあり、明治初期まで宝鏡寺に隣接してあり、 後に富子は出家して妙善院となって大慈院に入寺しました。
現在、大慈院は宝鏡寺に受け継がれ、阿弥陀堂には日野富子の御木像も安置されています。
その後の足利将軍家
応仁の乱後に幕府の衰退が目立つようになると、幕府と朝廷との関係に変化が生じてきます。明応の政変以降に将軍家が事実上分裂し、幕府から朝廷への財政援助も望めなくなると、朝廷はどちらの陣営からでも正式な申請と御訪(必要経費の献上)があれば任官申請を認めるという一種の機械的処理を行うことで、将軍家の内紛が朝廷に影響するのを回避しようとしました。
ところが、足利将軍家の義稙系(足利義稙―足利義維―足利義栄)と義澄系(足利義澄―足利義晴―足利義輝・義昭兄弟)への分裂は有力公家であった摂関家にも影響を及ぼします。
近衛家が娘を義晴・義輝の正室として連携を深め、これに対抗して九条家が義稙系と結んだためです。
その結果、「義稙系将軍家・九条流摂関家(九条家・二条家・一条家)」対「義澄系将軍家・近衛流摂関家(近衛家・鷹司家)」という政治対立の構図が成立します。
このため、義澄系将軍家が力を持っている時は、九条流は摂関の解任や地方への下向を余儀なくされ、反対に義澄系将軍家が京都を追われた時には、近衛流が力を失い近衛家が義澄系に随行して地方に下向する状況になり複雑さと混乱を極めました(鷹司家は戦国時代中期に一時断絶します)。
その後、永禄の変が発生すると、近衛前久は近衛家の血を引く義輝が殺害されたにもかかわらず、対立してきた足利義栄への支持に傾き、二条晴良がそれに対抗するため義輝の弟である義昭の支持に切り替えます。
結果、義昭が織田信長の後ろ盾を受けて上洛すると、近衛前久は関白の地位を失って亡命を余儀なくされ、代わりに二条晴良が関白に任ぜられ、亡命していた九条稙通が京都に帰還しました。
その後、義昭は信長に追放されて室町幕府は事実上滅亡し、足利将軍家は実体を喪失するが、摂関家の争いはその後の関白相論につながっていきました。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。