石田三成(2/2)秀吉の優秀な官僚であり、忠臣だった武将

石田三成

石田三成

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人物記
名前
石田三成(1560年〜1600年)
出生地
滋賀県
関連する城・寺・神社
大垣城

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忍城

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長浜城

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佐和山城

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関係する事件

入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の要請で毛利輝元が大坂城に入ります。同時にこの三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られました。ここに石田三成を中心とした反徳川の軍勢が大坂で挙兵。会津に向かった家康の軍を東軍、大坂で挙兵した事から反徳川の軍勢を西軍と呼びます。
決起した西軍は、家康の家臣である鳥居元忠の守る伏見城を包囲、伏見城は陥落します(伏見城の戦い)。
また伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城、安濃津城、松坂城などを落としますが、東軍が引き返して大坂へ向かってきたため、美濃方面へと向かいます。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになりました。

関ヶ原で両軍が相まみえ、朝から激突します。当初は西軍優勢で進み、三成は黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら数倍の敵を一手に引き受けたとされていますが、西軍のうち小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りによって、西軍は総崩れとなったと言われています。
戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて戦場を落ち延びましたが、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛されてしまいます。
その後、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされます。家康と会見し、大坂・堺を罪人として引き回されました。
石田三成は、慶長5年10月1日、家康の命により六条河原で斬首されました、享年41。
首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られました。

三成の逸話

三献茶
鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた豊臣秀吉は寺に立ち寄り、茶を所望しました。
寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出します。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の心遣いでした。
この気遣いに感心した秀吉は、その寺小姓を家臣にしたといいます。この寺小姓が後の石田
三成でした。
石田三成と大谷吉継
ある時、茶会で一口ずつ飲み次へ茶碗を回し飲んでいました。らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしましたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまいます。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけでしたが、三成は躊躇わず茶を飲み干しました。それ以降二人の間には厚い友誼が結ばれたといいます。
石田三成と家臣達
石田家中で行われた関ケ原直前での話。
三成に家臣の島左近は「家康に味方する者が多く、時期を逸したのでここは挙兵せず我慢するべき」と進言します。
これに対して三成は「一時の成功よりも、事が起きた後、いかに平穏にさせるのかを考えるべきである」と受け入れませんでした。
三成が来客のため場を離れると、三成の家臣が左近に向かって「あなたの言うことがもっともである。松永久秀と明智光秀は悪人であったが決断力は人並みではなかった」と言いました。
その後、関ヶ原の戦いの前の事。家康は島左近の動静を探るべく同じ大和国出身の柳生宗矩を左近の許に送り込みます。二人の話が天下の趨勢に及ぶと左近はその密議の事を思い出して「今は松永や明智のような決断力と知謀のある人物がいないので何も起こらないでしょう」と語ったと言われています。官僚としてとても優秀でしたが、指導者としては判断を誤る所もあったのかもしれません。
石田三成と佐和山城
石田三成が治めた佐和山城。
佐和山城は鎌倉時代より近江守護職の佐々木家により、砦が建てられたことに始まります。戦国時代の後半に入ると、北近江の新興勢力である浅井家が勢力を伸ばし、佐和山城もその支配に入り、浅井家の居城小谷城の支城の1つとなります。
浅井家が織田家により滅ぼされると丹羽長秀に統治されます。豊臣秀吉の時代に入ると、幾人か城主を変えた後、石田三成が入城します。
三成は、当時荒廃していたと佐和山城を大改修し山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築きます。
その城の威厳から当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われたほどです。ただし城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張り、壁はあら壁のままだったそうです。庭園も簡素に造られ樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で作られました。城内の様子を見た当時の人々も外から見る威厳と異なり、すこぶる案外に感じたと『甲子夜話』に記されています。
関ヶ原の戦いの直後、東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死しました。
石田家の滅亡後、徳川四天王の一人である井伊直政が入城しましたが、関ヶ原の戦いで負った傷がもとで亡くなると、子の直継が引き継ぎますが彦根城に移り佐和山城は廃城となりました。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に破壊されたため、現在の城跡にはほとんど何も残っていませんが石垣や土塁など一部だけ現存しています。また、「佐和山城址」の石碑が山頂にあり、琵琶湖を一望できます。

石田三成の所縁

石田会館と産湯の井戸
滋賀県長浜市石田町には、石田三成誕生の館跡に石田三成に関する資料館「石田会館」があります。資料館の中には石田三成に関する資料があり、会館外には「石田治部少輔出生地」と刻まれた石碑や三成の銅像もあります。また、石田会館の近くには三成誕生時産湯に使われた産湯の井戸があります。
大原観音寺と、秀吉・三成出逢いの像
滋賀県米原市にある寺院です。もと伊吹山にあった観音護国寺が、正元年中(1259~60年)に現在地に移転して、寺観を整えたといいます。大原観音寺は、石田三成と羽柴秀吉の出会いの地とされています。寺の小僧だった三成が、鷹狩りで立ち寄った秀吉に茶を献じて、「三椀の才」で見出されたという逸話が残っています。三成が秀吉に献じたお茶の水を汲んだとされる古井戸も残っています。 長浜市長浜駅東口、黒壁スクウェアに向かって歩くと、この秀吉・三成出逢いの像があります。
石田堤(いしだつつみ)
石田堤は、豊臣秀吉による関東平定の一環として小田原方の成田氏長居城である武蔵国忍城を石田三成らが攻めたときに、水攻めのために忍城の周囲を総延長28 kmに渡って築いた堤です(忍城の戦い)。平成29年(2017)、現在残っている堤の遺構は、文化庁が認定する日本遺産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産(文化財)のひとつに加えられました。
石田三成祭
石田三成の出生地である長浜市石田町で「石田三成祭」が開催されます。朝から「石田三成公忌法要」があるほか、昼からは記念講演会が行われます。ステージでは法要終了後から夕方まで、地元学生による和太鼓の演奏、歴史系アーティストによるダンスやライブ、スタンプラリー、餅まきなどが催されます。

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関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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