山名宗全(2/2)応仁の乱の西軍大将
山名宗全
管領であった畠山持国は足利義政を将軍に据える事に成功します。畠山持国はここから自らの勢力を拡大していこうと行動に出ます。6代将軍であった足利義教(7代義勝、8代義政の父)は守護大名(国主)の後継者争いに積極的に介入しました。すると国主の座を奪った側と追われた側とが生まれます。畠山持国は追われた側を国主返り咲きに助けます。反対に細川勝元は国主にいた側を助けます。こうして畠山持国と細川勝元とが政争を行う間、山名宗全は婿の細川勝元に付きました。
ところが畠山持国の畠山家でもお家騒動が持ち上がります。持国には正式な実子がいませんでした。そこで弟の子を跡継ぎに据えます。しかし持国には庶子(認知していなかった子)がいました。その為、持国は自らの子だったこの庶子を招き弟の子を廃嫡した上で畠山家の跡継ぎに据えます。この弟の子と庶子とはいえ持国の子とに分かれて家臣が割れます。細川勝元と山名宗全はこの争いを煽り畠山家は没落していきました。
さて8代将軍足利義政です。最初は管領畠山持国に支えられ将軍となりましたが、次第に畠山家は没落していきます。その間に幼くして将軍に就任した足利義政も成長していきました。成長するとより実権を持った将軍になりたいと志します。その義政を助けたのが政所執事であった伊勢貞親です。貞親は足利義政を助けていましたが、次第に実権を握っていきます。また管領職に就ける3管領家の一つ斯波家で跡継ぎ問題が起こると伊勢貞親は介入し細川勝元と敵対します。
さらに足利義政には実子がいませんでした。そこで義政は弟(6代将軍足利義教の子)義視を次期将軍に立てます。ところが義政に子が出来ました、後の足利義尚です。義尚は伊勢貞親を養育係として育ちました。伊勢貞親は足利義政の弟義視を廃嫡し義尚を将軍に就けようと画策します。足利義視は伊勢貞親と敵対していた細川勝元に助けを求めました。そして伊勢貞親が足利義政に義視を討つよう讒言した事が露見し、伊勢貞親は京を追われました。(文正の政変)山名宗全はこの間、細川勝元の側に立ち助けています。
応仁の乱と宗全の死
さて畠山持国や伊勢貞親と争っている間、山名宗全は8代将軍足利義政や幕府の命令に度々背いていました。そこで足利義政は山名宗全の追討を命令。これを細川勝元が取りなして中止にさせるなど、山名宗全と細川勝元との関係は良好でした。
反面、山名宗全は嫡男教豊に家督を譲りましたが、次男の是豊が反発。細川勝元は次男の是豊を引き立て山名宗全と細川勝元との関係が拗れていきます。
さらに管領だった畠山持国の跡目争いは続いており、細川勝元と山名宗全は争っていたそれぞれの陣営を支持します。同じように管領に成ることが出来た三管領の一家、斯波氏も後継争いが起こり勝元と宗全は争っているそれぞれの陣営を支持しました。
すると次第に大内氏や一色氏など「反細川勢力」と呼ぶ大名が山名宗全を担ぎ上げ盟主的な存在(大名頭)になります。そして足利将軍家です。8代将軍足利義政には跡継ぎがいませんでした。そこで父であり6代将軍であった足利義教の子、義政の弟義視を次期将軍に選びます。ところがこの後に義政の子が出来ました、後の9代将軍足利義尚です。義尚の母であった日野富子は産んだ義尚を将軍に据えるべく山名宗全に接近しました。
こうして足利将軍家や多くの大名が跡目争いを契機に細川勝元派、山名宗全派に分かれ散発的な争いを起こします。そして応仁元年(1467)、上京の戦いを契機に応仁の乱が始まります。山名宗全の居城であった出石此隅山城には、各地から集結した西軍が集まります。宗全はこの2万6千騎とも呼ばれた兵を率いて京都へ進軍します。
山名宗全が率いた西軍は、上京した当初こそ劣勢でしたが周防から進軍してきた大内政弘(娘婿大内教弘の子)の助けを得ると一進一退の攻防を繰り広げます。
京において戦いが長引くと山名宗全も後悔し始めました。度々和睦を模索しましたが、戦い途中の和睦は成立しませんでした。そして文明5年(1473年)山名宗全は京において病死しました、享年70。
宗全の亡くなった2ヵ月後、細川勝元も亡くなりました。翌年には宗全と勝元の子供たちが和睦を行い成立しましたが、それぞれの陣営は散発的な戦いを続け最終的な終結は文明9年(1477)となりました。この応仁の乱が起こる事で、日本全国に戦いの火種がまかれ戦国時代の下地となります。山名宗全は顔が赤く好戦的、横暴な性格であったので「赤入道」と呼ばれていました。反面、多くの大名が宗全を支持したように人望があり室町時代中期の波乱な時代を駆け抜けました。
山名宗全と竹田城
竹田城は、現在の兵庫県朝来市和田山町にあった城です。城の形が、虎が伏せているように見えた事から虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)とも呼ばれていました。
竹田城の歴史は判然として分かりませんが、古い伝承をまとめた『和田上道氏日記』によると、嘉吉元年(1443)に丹波守護であった山名宗全が家臣の太田垣光景に命じて建てさせた城と言われています。その後、太田垣氏により統治が続きましたが、天正8年(1580)に羽柴秀吉の但馬攻めで竹田城は落城し、太田垣氏も追われたと言われます。
豊臣政権下では赤松広秀が入城し、赤松氏の時代に現在の総石垣造りとなり現在にまで残る石垣の遺構が出来ました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こると赤松氏は西軍に与した事から敗退し自刃しました。この赤松氏の最後と共に竹田城も廃城となります。
現在、竹田城は国の史跡として登録され、円山川の川霧に城が包まれる事から「天空の城」や「日本のマチュピチュ」と呼ばれ親しまれています。
山名氏の此隅山城(このすみやまじょう)
此隅山城は兵庫県豊岡市出石にあった山城です。子盗城、此隅城とも呼ばれていました。
応安5年(1372)、出石神社の北にある此隅山に山名時義が築城したことが始まりとされます。以後、代々山名氏の居城となり宗全の代には但馬国だけでなく周辺の因幡・播磨・備前・美作国など全国66カ国のうち11カ国を領する中心地となりました。
応仁の乱が起こると山名宗全は各領国から2万6千騎の兵を此隅山城に集結させ、ここから京へ進軍しました。
此隅山は古墳上の地形にあり、小規模な古墳の上に城が建っているとされています。現在、此隅山城は有子山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されています。
山名氏と時代祭
時代祭は明治時代から行われている秋のお祭りです。京都三大祭りの一つに数えられます。平安京の遷都を記念し、平安神宮から京都御所まで神輿が行幸します。そして、その日の午後に京都御所から平安神宮に還御されます。
この帰り道の神輿を先導する風俗行列を時代祭りと呼びます。
時代祭りは平安時代から幕末までの各時代を彩る形で行われ、室町時代も含みます。室町時代は洛中風俗列と室町幕府執政列が参加します。室町執政列は足利将軍や伊勢氏、細川氏の他に山名氏も含まれています。
古き時代に都があった京、その京で行われるお祭りを見て思いを馳せる一日にしては如何でしょうか。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。