山名宗全(1/2)応仁の乱の西軍大将
山名宗全
室町時代の中期、俗に戦国時代と呼ばれる前の時代のお話です。室町幕府を支える四職の一つ、山名家に一人の傑物が誕生しました。山名宗全です。宗全は3男に生まれましたが、家督を継ぐと勢力を伸ばしていきました。特に幕府が不安定な時期に入った時期で、絶え間ない権力争いの中で足場を固めていきます。そして晩年、諸国の大名を巻き込んだ応仁の乱が起こると西軍の大将となりました。
山名氏
山名氏の祖先は鎌倉時代、早くから源頼朝に従った御家人だったので優遇されていました。
南北朝時代になると、縁戚であった足利尊氏に従い北朝側に立って山陰地方で戦います。この功績が評価され、山名氏は室町幕府から各地の守護(国主)に任じられます。伯耆国(鳥取県西部)、丹後国(京都府北西部)、紀伊国(和歌山県)、因幡国(鳥取県東部)、丹波国(兵庫県北中部)、山城国(京都府)、和泉国(大阪府南部)、美作国(岡山県中部)、但馬国(兵庫県中部)、備後国(広島県東部)、播磨国(兵庫県西部)を領し一族がその経営に当りました。全国66ヶ国のうち11ヶ国を領した事から「六分一殿」とも呼ばれています。
また足利義満より侍所長官(武士の統率や裁判の裁定を行う長)を出す四職の一家に定められ、実と名を兼ね備えた家でした。
4代将軍足利義持と山名宗全の誕生
山名宗全は応永11年(1404)、山名氏の宗家当主であった山名時熙の3男として生まれます。名前は4代将軍足利義持の一字を貰い、持豊と名乗っていましたが晩年に出家して宗全と名乗ります(この話を通して、宗全で統一します)。
宗全が生まれた室町時代は、征夷大将軍に4代将軍足利義持が就いていた時代でした。義持は3代将軍足利義満の長男として生まれ父の義満から将軍職を禅譲されました。義持の統治した時代は、室町時代を通しても比較的安定した時代でもありました。
宗全は応永28年(1421)12月、備後国(広島県東部)の国人衆を因幡守護山名熙高と共に討伐する事で初陣を果たします。
5代将軍足利義量と山名宗全の家督相続
将軍であった足利義持は応永30年(1423)に将軍職を子の義量に譲ります。義量は父の義持に後見される形で将軍となりました、5代将軍足利義量です。ところが応永32年(1425)に在位2年ほどで義量は亡くなります。
父の義持は義量が亡くなると実質的に幕府を運営しましたが、その義持も応永35年(1428)に亡くなります。この亡くなった時、義持にも先に亡くなった子の義量にも子がいませんでした。つまり3代将軍足利義満の長男、足利義持の家系はここで途絶えます。更に義持は後継者を決める事を拒否したまま亡くなりました。
幕府を運営していた管領畠山氏を始め幕府重臣は協議の結果、3代将軍足利義満の子(亡くなった4代将軍足利義持の弟達)からクジ引きで次の将軍を選ぶことを決めました。
こうして将軍となったのが3代将軍足利義満の5男、足利義教です。義教は6代将軍足利義教となりました。
さてこの間の山名宗全です。山名家は応永27年(1420)に長男の山名満時が亡くなります。これで山名家の相続者は次男の山名持熙、三男の山名宗全となりました。
応永35年(1428)には父の山名時熙が病に倒れ宗全を後継者にしようと考えます。ところが6代将軍となった足利義教は側近を務めていた次男の山名持熙を後継者にするよう命じます。
父の山名時熙は病から回復し一度は後継問題を先送りしましたが、永享3年(1431)に次男の山名持熙は将軍足利義教から勘気をこうむり退けられます。こうして山名宗全は山名家宗家の家督を継承しました。次男の山名持熙はこれを不服として宗全に対し挙兵しましたが、宗全に攻められ討ち取られます。
永享5年(1433)、山名宗全は父に代わって山名宗家の当主となり、但馬、備後、安芸、伊賀の守護大名、更に永享12年(1440)には幕府侍所頭人兼山城守護となりました。山名宗全は30代半ばで、実質も形式も兼ね備える十分な実力者となったのです。
6代将軍足利義教と嘉吉の乱
さてクジで選ばれた(或いは文字通り勝ち取ったとも言えますが)6代将軍足利義教。
「籤引き(くじびき)将軍」とも呼ばれた義教でしたが、将軍に権力が集中するような政治体制を望みます。兄で4代将軍であった義持、甥で義持の子であった5代将軍の義量、この2代に渡って低下した将軍の権威を回復しようと試みます。
それまで将軍の家臣が行っていた裁判を直接とり行ったり、各地の守護(国主)の後継争いに介入したりと精力的に活動していきます。ところが行き過ぎた権力集中への望みは恐怖政治となり「万人恐怖」と呼ばれるような時代になりました。
そんな中事件は起こります。永享9年(1437)頃から播磨の守護大名、赤松満祐が将軍に討たれるという噂が流れました。また永享12年(1440)には足利義教が重用している赤松家分家の赤松貞村に満祐の弟の所領を没収して与えました。
そして嘉吉元年(1441)6月。慰労という名目で赤松満祐は将軍足利義教に「将軍御成(将軍が家臣の屋形に訪れ祝宴を開く政治儀式)」を要請します。足利義教はこれを受諾し、側近の大名や公家を連れ赤松邸へ訪れます。この時、山名宗全も同行していました。屋敷では宴席が催され、猿楽を鑑賞していた時の事です。屋敷の扉が全て閉ざされ、赤松満祐は将軍を殺害しました。また同行していた大名、公家も殺傷され山名家もその場で殺された者もいましたが、宗全は屋敷を抜け出す事に成功しました。「嘉吉の乱」です。
赤松満祐ら赤松氏は幕府の討伐が来ると考え、予め自害するつもりでいました。ところがこれほどの事件が起こった事で都は静まり返り、状況を見極めようとします。そこで夜になり館に火を付けると、赤松満祐は槍先に足利義教の首を掲げ領国の播磨国へと退去していきました。
7代将軍足利義勝と山名宗全の赤松氏鎮圧
嘉吉の乱で6代将軍足利義教は亡くなりました。乱を起こした赤松家は領国の播磨国へと戻ります。幕府では次期将軍の話し合いが持たれました。そこで次期将軍に決まったのが足利義教の息子、8歳の義勝です。正式には翌年に9歳で就任した義勝は7代将軍足利義勝となりました。又、この就任後に管領となり7代義勝を補佐したのが畠山持国でした。
さて嘉吉の乱が起こった直後の山名宗全です。宗全は領国の但馬国へと戻ると山名一族を従えて赤松満祐の播磨国へと侵攻します。侵攻は成功し宗全は播磨一帯を支配下に置くことが出来ました、と同時にここから赤松氏は播磨国奪還の運動を行っていきます。
嘉吉3年(1443)の事です。嘉吉の乱で殺された一族の山名熙貴の娘を養女に迎え、周防や長門などの守護大名であった大内教弘に嫁がせます。この夫婦の間に出来た子が応仁の乱で宗全と組み、西軍主力となる大内政弘です。
文安4年(1447)には同じく山名熙貴の娘を養女とした上で幕府管領の細川勝元に嫁がせます。この細川勝元が応仁の乱で宗全と敵対する東軍大将となります。つまり西軍の大将山名宗全は舅(義理の父)、東軍大将細川勝元は婿(義理の息子)でした。ただし宗全と勝元は応仁の乱が始まるまで手を結んで政争を戦い抜きます。
こうして7代将軍足利義勝が就任した直後には、山名宗全は姻戚関係を使って地盤を築いていきます。
8代将軍足利義政と文正の政変
嘉吉の乱で亡くなった6代将軍足利義教の子、7代将軍足利義勝。しかし足利義勝は就任9ヶ月の嘉吉3年(1443)に夭折します。管領であった畠山持国は運動し周囲と協議した結果、6代将軍足利義教の子、7代将軍足利義勝の弟の義政を将軍に据えます。8代将軍足利義政は8歳で将軍になる事が決まりました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。