徳川家康(2/2)戦国時代を終わらせた天下人
徳川家康
ところが、関東の北条氏直は秀吉に臣従することに応じませんでした。天正18年(1590年)秀吉は北条氏討伐を開始。北条家は降伏しましたがその直後、家康は秀吉の命令で駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封されます。この移封によって119万石から関東250万石への類を見ない大幅な加増を受けたことになりますが、徳川家に縁の深い三河国を失います。
また、当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあったので、北条家が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城としました。
文禄元年(1592)から秀吉の朝鮮出兵が開始されますが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけでした。
慶長3年(1598)、朝鮮出兵が泥沼化する中、秀吉は病に倒れ死去。秀吉が亡くなると五大老・五奉行は朝鮮から日本軍を撤退させます。結果的に家康は朝鮮出兵で兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができました。
豊臣秀吉の死後、大名の中で内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から子息秀頼を遺言で託されていた為、五大老筆頭と目されるようになります。
関ヶ原の戦いと大坂の陣、そして晩年
徳川家康は生前の秀吉により禁止と定められた、合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を多数行います。この行為は、五奉行の石田三成らより家康の専横と捉えられ、反徳川家の大名の反感を買います。
一方、石田三成は豊臣秀吉の命にしたがい、朝鮮出兵を計画した為、日本から朝鮮半島へ出征した大名の反感を買います。
そして慶長5年(1600)、会津の上杉家の家老、直江兼続が徳川家康の弾劾上を送り徳川家と上杉家との戦に発展しました。豊臣家の大名も引連れ会津に遠征した家康でしたが、江戸まで至ると今度は大坂で石田三成が反徳川の大名を糾合し挙兵しました。家康は日本の東西で挟み撃ちにあいます。
そこで上杉家に対する兵を残し、家康は来た道を取って返し大坂に向かいます。そして、石田三成を中心とした軍と関ケ原で激突、これに勝利しました(関ヶ原の戦い)。ここで実質的に、家康が天下を治めます。
翌慶長6年(1601)には征夷大将軍となりますが大坂には豊臣秀吉の遺児、秀頼がいました。晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は脅威であり、なお特別の地位を保持していて実質的には徳川氏の支配下には編入されていませんでした。
また関ヶ原の戦い後に西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名でした。慶長19年(1614)ついに、20万人からなる大軍で大坂城に籠る秀頼を完全包囲し(大坂冬の陣)、慶長20年(1615)に豊臣家を亡ぼしました(大坂夏の陣)。
こうして長かった戦国の時代は終わり、日本は江戸時代へと入っていきます。
そして元和2年(1616)4月、病のため鷹狩に出た先で倒れた徳川家康は、駿府城で亡くなりました。享年75。
徳川家康と江戸城
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の後、秀吉から後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康は駿府(現在の静岡市)から江戸(現在の東京都)に入ります。
江戸の地は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて江戸氏が館を置いて拠点としていました。室町時代に入ると太田道灌が、江戸城を築城します。家康が江戸にやってきた時にあった城が、この太田道灌が使っていた荒れ果てた城でした。
家康は家臣団とその家族とでやってくると城を築きながら街づくりを始めます。
関ケ原の戦いで家康が将軍となると慶長8年(1603)以降、全国の大名による城と町の拡張工事に着手し、天下普請による江戸の街づくりを開始しました。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行います。
この天下普請は万治3年(1660)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、その完了も持って一旦の終了となりました。
江戸城の天守閣は徳川家康の改築以降、慶長度(1607)・元和度(1623)・寛永度(1638)と3度築かれます。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾る豪勢な造りでした。
ところが明暦3年(1657)の明暦の大火によって寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が加賀藩主の前田綱紀によって築かれましたが、城下の復興支援を優先させ、以降天守を築くことはありませんでした。
初期の江戸は飲み水の確保が難しい土地柄でしたので、早くから上水道を整備。更に日本中の武士が参勤交代で訪れるので、人口は100万人を数え、世界有数の都市となりました。
明治時代に入ると江戸城は皇居として、江戸は東京都として日本の首都となります。
そして現在、東京を中心とした関東経済圏は世界有数の大都市となっています。
徳川家康のゆかりの地
- 若き家康が過ごした岡崎と家康行列
- 徳川家康が生まれ、今川家から独立した後に過ごしたのが三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)でした。その発祥の地である岡崎市で行われているのが家康行列です。
祭の起源は江戸時代、岡崎城内本丸にあった映世神社で行われていた「映世明神祭礼」(えいせいみょうじんさいれい)です。家康行列は毎年4月の第1または第2日曜日に開催される時代行列で「岡崎の桜まつり」のメインイベントです。公募で選ばれた徳川家康公を始めとする三河武士団、姫列など700余名が市内中心部を練り歩きます。 - 晩年を過ごした駿府城と安倍川餅
- 関ヶ原の戦いで家康が勝利し、征夷大将軍となりましたが秀忠に将軍職と家督を譲ります。そして自分は駿府城へと移りました。隠居後、駿府城の近くにある安倍川岸で、徳川家康は茶屋に立ち寄ります。そこの店主が黄な粉を安倍川上流(梅ヶ島)で取れる砂金に見立て、つき立ての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上しました。家康はこれを大層喜び、安倍川にちなんで安倍川餅と名付け現在、静岡県の銘菓となっています。
- 亡き家康が祀られている日光東照宮
- 元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去しました。家康の遺言により遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮が完成します。
そして翌・元和3年(1617)に下野国日光に改葬され、朝廷から東照大権現の神号を送られて家康は神として祀られました。寛永13年(1636)、3代将軍徳川家光が荘厳な社殿への大規模改築が行います。輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は、1999年「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。