黒田孝高(1/2)戦国随一の軍師

黒田孝高

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人物記
名前
黒田孝高(1546年〜1604年)
出生地
滋賀県
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中津城

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福岡城

福岡城

戦国時代、槍や弓・鉄砲などの武に優れた者もいれば、内政や築城に優れた者、戦わずして智で勝負する者まで武将にも様々なタイプがいました。その中で黒田孝高は知略に優れた参謀として、豊臣秀吉に仕え天下人に押し上げたとも言えるほど知略を発揮しました。2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』の主役になるなど、人気もあります。今回は軍師として名高い黒田孝高の生涯について紹介します。

黒田氏の由来と出生・青年時代

黒田氏は、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の出身と言われていますが、が定かではありません。

孝高の祖父・黒田重隆の時代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、龍野城主であった赤松政秀、後に守護・赤松晴政重臣で御着城(現在の姫路市東部)を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺則職・政職父子に仕えました。

小寺氏は黒田氏を高く評価。天文14年(1545)に重隆を姫路城代に任じて重隆の子、黒田職隆(孝高の父)には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせています。

天文15年(1546)11月29日、孝高は黒田職隆の嫡男として、播磨国の姫路で生まれました。幼名は万吉。永禄2年(1559)、母親を亡くし、文学に耽溺し、その後永禄4年(1561)には小寺政職の近習となっています。

永禄5年(1562)、父と共に土豪を征伐したのが初陣でした。この年から「小寺官兵衛」を名乗るようになります。永禄10年(1567)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代になります。また、従兄弟の明石則実との同盟を結んでいます。

永禄12年(1569)、3年前に山陰山陽に勢力を張る毛利元就により滅ぼされていた尼子氏の残党の立原久綱、山中幸盛らが尼子勝久を擁し、但馬国の山名祐豊や浦上宗景らに後援され、大友宗麟と多々良浜で交戦中であった元就の背後をつく形で出雲国で再興のために決起(尼子再興軍の雲州侵攻)。元就は義昭に救援を要請しました。

8月、祐豊に木下秀吉(後の羽柴(豊臣)秀吉)が率いる2万の兵が差し向けられます。更に義昭と誼を結んだ赤松政秀が、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるピンチに見舞われます。

政職は池田勝正、別所安治らに攻められ、宗景は宇喜多直家に離反され、孝高には300の兵しか無いにもかかわらず、奇襲攻撃を仕掛けるなど、2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功(青山・土器山の戦い)。

政秀は浦上宗景に攻められ降伏しています。この後、三好三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が張られ、義昭と信長の関係も険悪になりっていきます。

天正3年(1575)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言。7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀「圧切長谷部」を授かっています。

天正4年(1576)1月、丹波国の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃(黒井城の戦い)して信長より離反。 2月、義昭は毛利輝元(元就の嫡孫)の領内の鞆の浦へ逃れました。4月、信長と本願寺の和睦が決裂。7月、輝元の叔父・小早川隆景配下の水軍の将・浦宗勝が、信長の水軍を破る(第一次木津川口の戦い)。

天正5年(1577)10月に長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送っています。
信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後、秀吉を播磨に進軍させます。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡の国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになっていきます。孝高は秀吉本隊の上月城攻めに従い、佐用城攻めでは竹中重治らと共に先陣を務めています。

織田から豊臣家臣へ

天正6年(1578)3月、別所長治がほとんどの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し(三木合戦)、これに毛利氏が呼応。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で退けます。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、尼子遺臣団を残して上月城を放棄し、書写山まで撤退。

9月に孝高は宇喜多直家を調略することに成功するが、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反、有岡城に籠城しました(有岡城の戦い)。この時、主君の小寺政職も村重に呼応しようとしたため孝高は村重を翻意させようと有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に幽閉されてしまいます。

天正7年(1579)10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城、孝高は栗山利安に救出されました。
天正10年(1582)、毛利氏の武将・清水宗治が守る備中高松城攻略で、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められませんでした。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策、成功させたと言われています。

高松城攻めの最中、京都で本能寺の変が起こり、信長が自害。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策、中国大返しを成功させたという逸話はあまりにも有名です。

山崎の戦いでは天王山に布陣、裾野の中川清秀隊を追い落とそうとする明智軍と戦闘を繰り広げました。

天正13年(1585)、四国攻めにおいて、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わり、先鋒として諸城を陥落させていきます。植田城に対しては、これを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったといわれています。この頃、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めでキリスト教に入信し、「シメオン」の洗礼名を与えられています。

豊後国領主から関ヶ原の戦い

九州平定後の天正15年(1587)7月、馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石を与えられ、中津城の築城を開始しました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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