上杉謙信(2/2)軍神と謳われた戦上手
上杉謙信
同年3月、越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)、7月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後国を脅かすも、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃しました。
永禄12年(1569年)、蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増の降伏により、出羽庄内地方を手にしています。
その後も、北条氏や織田信長との戦いを繰り返し、手取川の戦いなどを重ねていきました。天正5年(1577)12月18日、謙信は春日山城に帰還。12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発し、天正6年(1578)3月には遠征を開始する予定でした。
しかし、3月9日、遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後意識が回復しないまま3月13日の未の刻(午後2時)に死去。享年49。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め、漆で密封したといわれています。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移されました。
生涯独身で養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかったこともあり、後継をめぐって御館の乱がおこります。勝利した上杉景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となりましたが、血で血を洗う内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えてしまいました。
なお、謙信が行おうとして未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていた、関東に再度侵攻しようとしていたなど諸説ありますが真相は闇の中です。
唐沢山城(栃本城)
唐沢山(247m)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された山城。戦国時代は、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名です。上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませるほどの堅牢な城でした。
佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩。当初、越後の上杉謙信と組んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲されますが、謙信が即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させています。
唐沢山城(佐野)は謙信にとっては関東における勢力圏の東端、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線だったため、特に重要視していたようです。
昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」が勃発。これにより佐野氏は上杉氏と決別しています。
天正4年(1576)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵で城を攻めるも、一上杉軍を撤退させたといわれています。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた記録が残っています。
現在、栃木県立自然公園の一部となっており、本丸に築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐沢山神社が鎮座遺構として石垣、大手枡形、土塁、堀切、土橋、近世に復元された井戸などが残っています。
春日山城
南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まり。永正4年(1507)、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放し、新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となりました。
春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の四代の居城でした。
しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、政治を取り仕切るに不便として、慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城は役目を終えました。
「春日山」の名称は、奈良の春日大社から分霊勧請(かんじょう)した春日神社に由来。
また、近くにある林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものだと言われています。
厳密な時代考証に基づいた初の復元模型が完成、2009年1月から12月まで開催された「越後上越天地人博」で展示されていました。
上杉家廟所
山形県米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所。昭和59年(1984)1月11日、米沢藩主上杉家墓所の名称で国の史跡に指定されています。
本来、謙信は越後の春日山上で没していますが、後継者の上杉景勝は後に天下統一を果たした豊臣秀吉の臣下となり五大老に任じられて、会津へ移動した際に謙信の霊柩も越後から会津に移され仮堂に安置されました。
現在の廟所は謙信霊廟を中央に、その左右に歴代藩主の霊廟(墓所)が厳かに立ち並んでいます。2代景勝から8代重定までは火葬での埋葬が行われ、御堂は入母屋造りの建造物ですが、9代治憲から12代斉定までは土葬となり、御堂も宝形造りとなっています。
謙信公祭
上越で行われている祭りです。
昭和戦前期から戦中、戦後も一度も中断されることなく、上越の人びとの手によって毎年開催されてきました。はじめての謙信公祭は、大正15年(1926)9月13日、当時の高田市・直江津市・春日村(いずれも現上越市)の各青年団主催で、春日山神社で開催されました。
また、地元には、戦国大名が割拠した動乱の時代においても、謙信公は、一年に一度だけ民衆を春日山城に招き入れ、日頃の労をねぎらったという言い伝えが残っており、こうしたことが謙信公祭を行うきっかけになったともいわれています。
市民にとっては憩いの祭りで、毎年多くの人が集まります。川中島合戦の再現やパレードなどは、訪れた人の目を楽しませてくれます。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。