上杉謙信(1/2)軍神と謳われた戦上手
上杉謙信
戦国時代、多くの武将にとってなくてはならないもののひとつが戦の才能でした。軍師や有能な家臣を使うという手もありますが、一番いいのは武将自身が戦に長けていること。戦上手と称された武将は幾人もいますが、その中でも上杉謙信はトップクラスと言えるかもしれません。越後を治め、武田信玄との戦いでも名を残しました。軍神または越後の竜とも呼ばれた彼の生涯について紹介します。
誕生から初陣
享禄3年(1530)、越後守護代・長尾為景(三条長尾家)・母虎御前の四男(次男、三男という説もあり)として、春日山城で生まれました。幼名は虎千代。庚寅年生まれのために名づけられたともいわれています。
当時の越後国は激しい内乱が続き、下剋上の時代の中で父・為景は戦を繰り返していました。父は越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定を長森原の戦いで討ち取ります。また、上杉定実を傀儡として権勢をふるいますが、越後国を平定するまでには至りませんでした。
同年10月、上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合、父の為景に反旗を翻します。この兵乱に阿賀野川以北に割拠する揚北衆だけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応する事態となりました。
父為景は三分一原の戦いで勝利するも、上田長尾家との抗争は以後も続き、次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や御館の乱へと発展していきます。
天文5年(1536)8月に為景は隠居、虎千代の兄・晴景が家督を継ぎました。虎千代は城下の林泉寺に入門、住職の天室光育の教えを受けたといわれています。実父に疎んじられており、為景から避けられる形で寺に入れられたという話も残っているほどです。
謙信は、武勇の遊戯を嗜んで人々を驚嘆させます。また好んで、一間四方の城郭模型で遊んでいたとも伝わっており後年、上杉景勝がこの模型を武田勝頼の嫡男信勝に贈っています。
天文11年(1542)12月、父の為景が病没。敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代は甲冑を着け、剣を持って亡父の柩を護送しました。
父の死後、兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって、国政を牛耳る勢いとなります。
家督相続から越後統一
天文12年(1543)8月、虎千代は元服して、景虎と名乗ります。天文13年(1544)春、兄・晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こし、15歳の景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻め寄せます。
しかし、景虎は謀反を鎮圧することで初陣を飾りました(栃尾城の戦い)。
天文14年(1545)10月、守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対し謀反を起こします。秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害した後、黒滝城に立て籠もりました。景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として軍を指揮。秀忠を降伏させました(黒滝城の戦い)。
しかし、天文15年(1546)2月、秀忠が再び兵を挙げ、景虎を擁立して晴景に退陣を迫るようになったため、晴景と景虎との関係は険悪なものとなっていきます。
天文17年(1548)になると、晴景に代わって景虎を守護代に擁立する動きが盛んに。
同年12月30日、守護・上杉定実の調停の下、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退。景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続、守護代となりました。
天文19年(1550)2月、定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められます。
天文20年(1551)1月、景虎は政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、勝利。さらに同年8月、坂戸城を包囲することで、鎮圧しました(坂戸城の戦い)。政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱はいったん収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げました。
川中島の戦い
歴史に名を残すことになった甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄(武田晴信)と、越後国(現在の新潟県)の上杉謙信(長尾景虎)との間で行われた数次の戦いが川中島の戦いです。
最大の激戦、第四次の戦では千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)周辺が主戦場だったと推定されており、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと総称しています。
川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561)に行われ、別名・八幡原の戦いとも呼ばれています。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出しました。
しかし、第四次合戦については戦が起こる前の外交情勢については確認できても、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみで確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎に包まれています。
しかし、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書が残っており、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることからも、この年にこの地で激戦があったことは確かです。
川中島をめぐる武田氏・上杉氏間の争いは、第四次合戦を契機に収束。以後両者は直接衝突していません。上杉謙信は武田信玄の支援を受けた、越中の武将や越中一向一揆の鎮圧に忙殺されていきました。
越中への進出
永禄11年(1568)、織田信長に推されて新将軍となった足利義昭からも関東管領に任命されます。この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる一方で北信濃をめぐる武田氏との抗争は収束しました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。