細川忠利(2/2)ガラシャの息子

細川忠利

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人物記
名前
細川忠利(1586年〜1641年)
出生地
京都府
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熊本城

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小倉城

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中津城

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関係する事件

こうして細川忠利は細川家の後継と決まり、元和6年(1620年)に父忠興から家督を譲られて小倉藩主となりました。
この忠利が小倉藩主だった時のお話です。

忠利は葡萄酒(ワイン)が好きでした。そこで家臣の上田太郎右衛門に命じ、ワインを作らせます。この家臣が作ったワインは葡萄をアルコールにつけた果実酒のようなものではなく、山葡萄を黒大豆の酵母に添加し発行させたワインでした。これは日本における最初の国産ワインと言われています。ただし当時、ワインはキリスト教に関連した飲み物と考えられ、禁教令に伴い細川家でのワイン作りも終了しました。

また小倉の細川家では寛永元年(1624)から寛永5年(1628)に掛けて貨幣鋳造も行われていました。これは幕府が行った寛永通宝より前に行われ、鋳造も請負制による入札で行われました。この貨幣はベトナムで上質の貨幣として輸出され、上質の貨幣としてベトナム国内で流通していました。細川忠利は小倉藩主として様々な試みを行っていました。

家督継承と父細川忠興

九州の小倉を治めていた細川忠利でしたが、寛永9年(1632)肥後熊本藩の加藤忠広(加藤清正の子)が改易された為、その加藤家の後に移り熊本54万石を治める事になりました。忠利は熊本藩主として島原の乱にも参戦、武功を挙げています。

この熊本を治めていた寛永18年(1641)、忠利は1人の剣客を客人として迎えました、宮本武蔵です。武蔵は客人として屋敷を与えられ、鷹狩りを許されるなど賓客として遇されました。この熊本に居を構えた時代、宮本武蔵は画や工芸などの作品を制作、今日までその作品は残ります。また熊本近郊の金峰山にある岩戸、霊巌洞に籠り書かれたのが『五輪書』でした。

細川忠利は宮本武蔵を招きましたが同じ年、寛永18年(1641)に亡くなりました、享年55。細川家の後継は長男の細川光尚が継いでいます。
将軍であった徳川家光は「越中早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と嘆かせるほど、徳川家にとっても忠利は重要な人物でした。

出水神社

出水神社(いずみじんじゃ)は、細川家の歴代当主を祀る神社として、熊本市中央区にある水前寺成趣園内に置かれた神社です。
明治10年まで行われた西南戦争において熊本は最大の激戦地となりました。熊本市街は焦土と化し人心は疲弊します。そこで復興にあたり町の人々が拠り所となるような場所を作ろうと考えられました。西南戦争の翌明治11年(1878)、かつて仕えていた細川家の家臣らによって出水神社は創建されました。

祭神は忠利の祖父細川藤孝(幽斎)、父忠興、細川忠利、名君の誉れ高い6代藩主重賢を主祭神とし、その他の藩主や忠興の妻玉など11柱を配祀しています。春や秋の祭では古武道、剣道、流鏑馬などの奉納が行われます。特に夏祭りで奉納される薪能は敷地内の能楽殿で行われ日本で5番目に古いとされています。

八代神社氷室祭

細川忠利は病弱だった子供時代でもあったので、父忠興は痛く心配しました。そこで忠興は度々忠利に対して、栄養配分を考えた食事を摂る事、同じものをたくさん食べない事、を書状で忠告しています。

そんな心配性の父忠興でしたが、忠興の食べ物に関するお話があります。
細川家は加藤家の後を受けて熊本を治めるようになりました。父の忠興はこの時、八代を隠居所とします。八代の民は隠居生活を送る忠興が無事に夏の暑さを越えられるように、近くの三室山に氷室を作り冬の雪を蓄えて献上しました。
これが現在の熊本県八代市の八代神社で行われる「氷室祭(ひむろさい)」の始まりと言われています。

「氷室祭(ひむろさい)」は5月31日、6月1日に行われ、還暦や厄年を迎えた人たちが無事に願う祭りです。またこの祭りに合わせて販売される「雪餅」は雪に見立て、あんを米粉の生地でくるんだものを蒸した御菓子です。まつりでは無病息災を願い、このお菓子を食べる事を習慣としています。

小倉城

小倉城は、福岡県北九州市にあるお城でした。勝山城、鯉ノ城などの別名があります。
永禄12年(1569)、中国地方の毛利家が城を築いた事から始まり、高橋鑑種や毛利勝信が居城としました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川家が勝利すると、細川家を移封します。細川忠興は7年かけて唐造の天守閣を築城し、城下町も紫川で東西に分け、川の西を侍町、東を町人や下級武士の町としました。

細川家が熊本に転封されると、譜代大名の小笠原家が居城とします。以降、明治時代になるまで小笠原家による統治が続きました。天保8年(1837)、天守閣が焼失します。この天守閣は戦後、種々の資料を基に藤岡通夫により設計され、コンクリート構造で復元した物が今日の天守閣となります。

現在の天守閣は五階建て、エレベーターも設置されており、最上階からは小倉の町を一望できるスポットです。 また秋には北九州小倉城祭りを行うなど、今日では市民の憩いの場所として親しまれております。

熊本城

熊本城は、肥後国守護菊池氏の一族が隈本城を築いたことから始まりとされます。
その後、豊臣秀吉の時代に入ると佐々成政が経営を行いますが一揆が起こり、成政は秀吉により罰せられました。その後に入ったのが加藤清正です。清正は隈本城のほど近い所に新たに城を築いて熊本城を建てました。清正の亡き後、清正の子である加藤忠広が跡を継ぎましたが、その経営手腕を疑問視され加藤家は幕府により取り潰されました。

その加藤家の後に入ったのが細川家です。細川家は熊本城の改修を明治時代まで続けました。ところが明治に入り、新政府と西郷隆盛とが戦った西南戦争の時、天守閣は爆発焼失します。天守閣はその後、昭和35年(1960)に再建され今日に至ります。

熊本城では毎年、春と秋に「隈本城お城まつり」を行い市民に親しまれています。特に熊本にまつわる歴史や文化を身近に感じる企画が用意されています。春はYOSAKOIや熊本おもてなし武将隊を中心に全国の武将隊が集結する「戦国パーク武士の魂(もものふのちから)」を開催、秋は太鼓響演会をはじめ、古武道演武会、食のイベント、名月観賞を行い市民が楽しみます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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