細川忠利(1/2)ガラシャの息子
細川忠利
戦国時代、織田信長を本能寺の変で自害に追い込んだのが明智光秀でした。光秀には玉(ガラシャ)という娘がいます。玉は細川忠興の妻となり、二人の間には幾人かの子供が出来ました。ところが玉も関ヶ原の戦いの直前に、自害に追い込まれます。そんな明智光秀を祖父に、玉を母に持ったのが細川忠利でした。忠利は細川家の家督を継ぎ熊本を領します。今回は細川忠利について見ていきます。
出生と母ガラシャ
細川忠利は丹後国(現在の京都府北部)を領していた細川忠興の三男として天正14年(1586)11月に生まれます。母は忠興の正室である玉(細川ガラシャ)です。
母の玉は、明智光秀の娘でした。光秀は天正10年(1582)本能寺の変を起こし、主君であった織田信長を自害に追い込みます。その後、光秀は細川家に助力を求めましたが細川家の方ではこれを無視。さらに細川忠興は光秀の娘であった玉を幽閉しました。
その2年後、玉は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の執り成しもあり丹波の幽閉先から大坂にあった細川家の屋敷に移されましたが、監視の下での生活は続きます。そんな中での忠利誕生でした。
忠利を産んだ玉でしたが気苦労が絶えませんでした。忠利は病弱であり、父である明智光秀は本能寺の変を起こした事で亡くなっています。また細川家での監視の生活は続いていました。そこで監視の目を盗み、玉は教会へと話を聞きに行きます。
そして何度か通う内にキリスト教へ改宗しました。ただ気性の激しかった夫、細川忠興に改宗を告白したのは5年以上先でした。
玉の改宗に関しては、イエズス会の宣教師たちが本国へ送った報告書にも記されています。コルネリウス・ハザルトはその報告書を基に「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」の訳本「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」を作りました。
その翻訳本からイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが脚本を書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲したのが「強き女—またの名を、丹後王国の女王グラツィア」というオペラです。そのオペラの内容は、実話に近い内容でオーストリア・ハプスブルク家が特に好んだ、と言われています。
関ヶ原の戦いと母の死
細川忠利が生まれると、天下は豊臣秀吉のものとなりました。ところが慶長3年(1598)秀吉は亡くなります。豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康が台頭しました。
この家康の台頭に秀吉子飼いの奉行、石田三成が対立します。石田三成は他の豊臣家大名から反感を買っており、細川忠興も三成を憎んでいました。忠興は早々に徳川家の側に付き、忠利は江戸(現在の東京都)に人質として送られました。
そして慶長5年(1600)、忠利15歳の年。
上杉景勝が会津(現在の福島県)において徳川家康に決起します。この上杉景勝を討伐すべく、家康は会津征討の軍を整え大坂を出ました。ところが家康が関東まで来ると、大坂において石田三成が反徳川の狼煙を挙げます。
三成は大坂にいる家康に付いた諸大名の妻子を人質に取ることを考えました。細川家にも使者を出し、忠興の妻である玉を大坂城に移すよう指示を出します。
これを玉ははねつけたので、石田方は兵を出して細川家の屋敷を囲みました。屋敷を囲まれた玉は最後まで抵抗し、自害(玉はキリスト教を信奉していたので、自死はせず家来に殺させた、とされます)し亡くなりました。忠利は母の死を江戸において知ります。
また領国の丹後国は祖父である細川藤孝が守っていましたが、石田方の軍勢に包囲されます。飛び地の領地である九州豊後国杵築は重臣である松井康之などが守っていましたが、周囲を石田方の勢力に囲まれています。
父は家康の軍に従軍し、母は大坂で自害、祖父は石田方の軍勢に囲まれ、飛び地の豊後国杵築も石田方の勢力に囲まれている、そんな激動の期間を忠利は過ごします。
しかしこの期間、忠利は家康の軍に従軍している父忠興に情報を送り続け、連絡を絶やしませんでした。そんな忠利は徳川秀忠に近侍していましたが、この直後に元服します。
そして関ヶ原の戦いが起こりました。
徳川家康と石田三成とが戦った関ヶ原の戦いは家康の勝利となります。忠利の父、細川忠興は大いに活躍し丹後から九州小倉39万石の大大名となりました。
世子決定と長兄細川忠隆
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いは徳川家の勝利で終わりました。ところでこの年の師走。父の細川忠興は長男の細川忠隆を廃嫡し後継候補から省きました。諸説ありますが主に以下の理由と言われています。
忠興の妻玉は関ヶ原の戦い直前に大坂の屋敷で亡くなりました。ところが忠隆の妻千世は玉の死の直前に逃げます。これを忠興が怒り、嫡男忠隆が妻をかばった為に廃嫡した、と言われます。
あるいは関ケ原の戦いの前年、加賀国の前田利長が徳川家康の暗殺を謀ったと言われます。この利長と忠隆の妻千世は同母兄弟で、細川家にも暗殺加担の嫌疑が掛かったため疑念を払拭する意味で廃嫡した、とも言われます。
兎にも角にも細川忠興は忠隆を廃嫡しました。忠隆は出家し、妻を連れて京に暮らす祖父細川藤孝の下に移りました。細川家の後継は次男興秋、三男の忠利が候補となります。
次男の興秋は関ヶ原の戦いに従軍し功績を挙げ、小倉城城代になっています。一方で三男の忠利は江戸で人質になりさしたる功績もありません。しかし江戸にいる事で、徳川秀忠や徳川家臣の子弟と懇意になり強力なパイプを作っていました。
父の忠興は長男の忠隆を廃嫡しただけで、後継についてはしばらく定めませんでした。ところが慶長9年(1604)、忠興が病で倒れます。将軍である徳川家康や嗣子の徳川秀忠は後継に忠利を定めるよう薦めます。
忠興はこの後、病から回復し忠利を後継候補の筆頭に決めました。そこで江戸にいる忠利を小倉に戻し、次男の興秋を人質として代わりに江戸へ送ります。ところが興秋はその道中で出家し、祖父藤孝、兄忠隆が住む京へ出奔してしまいました。
大坂の陣と次兄細川興秋
細川忠利の代わりに江戸へ人質に出された次兄の細川興秋は途中で出奔し、祖父である細川藤孝の下に身を寄せていました。ところが慶長20年(1615)徳川家と豊臣家とが戦った大坂の陣が始まります。興秋は豊臣家から誘われ、この前年には大坂城に入城し、奮戦しました。しかし豊臣家は敗北し滅亡。逃げた興秋は伏見に隠れますが、最後は自害してしまいました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。