有馬晴信(2/2)貿易に勤しんだキリシタン大名

有馬晴信

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人物記
名前
有馬晴信(1567年〜1612年)
出生地
長崎県
関連する城・寺・神社
島原城

島原城

関係する事件

この司令官ペアソが翌年に日本へ来ます。ペアソは長崎奉行の長谷川藤広にマカオの事件を報告します。長崎奉行の長谷川藤広はそれまでの貿易慣行を不満に思い、このペアソも含めたポルトガル人も又、日本に対して不満に思っていました。長谷川藤広とペアソとは険悪な関係になります。

また前年に船員が殺されていた有馬晴信もペアソに報復を考えていました。ペアソなどのポルトガル人に不満を持っていた長谷川藤広は有馬晴信を教唆し、ペアソの捕縛と商船捕獲を企図しました。
危険を感じたペアソは自らのダ・グラサ号に籠り、積み荷を乗せたまま出航の準備を始めます。そこで有馬晴信は長谷川藤広の協力を得て司令官の船を攻撃。司令官は火薬庫に火を放ち、ダ・グラサ号を自沈させました。

この事件により日本はポルトガルとの貿易が減少し、イエズス会などのキリスト教も影響力を失っていきます。これに代わり日本と貿易を活発に行ったのが徳川家康の信任を得たウィリアム・アダムスのイギリスでした。また有馬晴信は、自らを教唆した長崎奉行の長谷川藤広と貿易に関して険悪な関係となっていきました。

岡本大八事件とその最期

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件が起こった後の話です。
有馬晴信は鍋島直茂の所領とされた自らの旧領3郡を徳川家康に願い回復しようとしました。慶長17年(1612)、本多正純は家臣の岡本大八を有馬晴信の下へ派遣し調査させます。岡本大八は晴信に「資金があれば幕閣の間で斡旋し旧領回復が叶うよう取り図る」「家康も有馬晴信については特別に目を掛けている」と言い家康の偽の書類も用意しました。結果、有馬晴信は白銀600枚にも及ぶ金銭を運動資金として渡します。
勿論、運動資金は岡本大八が着服しました。

しかし資金を渡した有馬晴信は、いくら待っても何の沙汰もありません。晴信は岡本大八の主人である本多正純に問いただし、詐欺事件は露見しました。大八は投獄されます。
ところが投獄された岡本大八が、有馬晴信は不仲にあった長崎奉行の長谷川藤広を殺害しようとしていた、と話し始めます。殺害計画は事実であったようで有馬晴信は弁明できませんでした。
戦国時代、複数の大名の間で上手く立ち回っていた有馬晴信は徳川家の前に失脚してしまいました。晴信は甲斐国に流され自害させられます。有馬晴信、享年45。
有馬晴信はキリスト教徒であった為、武士として自害したとも、キリスト教の教えにより自死できない為に家臣に首を落させた、とも言われています。

その後の有馬家

有馬晴信が岡本大八事件により切腹させられましたが、晴信の子である有馬直純は徳川家康の養女国姫(徳川家康の外孫であり、本多忠勝の孫)を妻として迎えていたことで、連座を免れます。更に徳川家から嫁を迎えた事から准譜代の扱いを受けました。

直純は江戸幕府のキリシタン禁教令を遵守し、親族から家臣、領民に至るまで棄教を迫りその政策は苛烈を極めます。直純自身も次第に禁教令を迫る事に疲れ、幕府に願い出て日向国延岡に転封します。
直純の後の有馬家は、越後糸魚川藩主、越前丸岡藩主と転封を重ね、明治維新を迎えました。

有馬晴信ゆかりの地

有馬晴信謫居の跡
岡本大八事件により蟄居を命じられた有馬晴信。晴信は駿河国の城主徳川忠長の家老甲斐国都留郡谷村に家来35名と共に預けられました。その後、幕府により自刃を命じられ亡くなります。この時晴信は切腹したとも、キリスト教の為自刃はできないので家来により首を討たせた、とも言われています。
「有馬晴信謫居の跡」はこの甲斐国で幽閉されていた場所を史跡として、整備しています。
有馬川殉教地
キリスト教を支持した有馬晴信。ところが晴信の息子、有馬直純が当主となると、幕府のキリシタン弾圧もあり領内にキリスト教を禁止しました。しかし有馬家の家臣にはキリスト教の信者が多くいました。この家臣たちの中にはキリスト教の棄教に応じない者もいました。
この家臣達3人とその家族が、慶長18年(1613)2万人以上の信徒が見守る中、火刑となり殉教しました。その火刑が行われた有馬川殉教地には、2009年に巡礼地の完成を祝う記念ミサと祝賀会が行われ、火刑で亡くなった8人が福者に列せられ殉教碑を設置し讃えています。
有馬キリシタン遺産記念館
有馬晴信が治めた長崎県南島原市。この場所はキリスト教が栄え、日本で初めてのキリスト教の学校「有馬セミナリヨ」などがありました。ところが江戸時代に入るとキリスト教の禁教令があり、島原の乱や250年間隠れてキリスト教を信奉した地域でもありました。
記念館では、有馬家やキリシタン文化の歴史を、わかりやすく紹介しています。

日野江城(ひのえじょう)

日野江城は、肥前国高来郡(現在の長崎県南島原市)にあった城です。
鎌倉時代初頭、日野江城は藤原純友の子孫とされた藤原経澄により築城されました。又、この藤原経澄は築城後に姓を有馬と改姓します。
有馬家は島原半島の一勢力に過ぎませんでしたが室町時代後期、有馬貴純が半島内の諸勢力を制圧し一大勢力に成長していきます。
有馬晴純の時代には最大の領土を持つようになりましたが、新興勢力の龍造寺家により圧力を受けるようになりました。晴純の子、有馬晴信はキリシタン大名となり城下にセミナリオ(キリスト教の学校)を建てるなど、西洋文化の影響を受けます。

日野江城は江戸時代に入ると有馬家の藩庁となりましたが、晴信の子、有馬直純の時代に転封したので有馬家の約400年間にわたる支配は終わります。
有馬家が去ると松倉重政が入城すると日野江城に不便を感じ、島原城を建設してそちらを藩庁とし日野江城を廃城としました。
城跡には八天狗(日本の伝承に登場する大天狗)が祀られ、果樹園や畑として整備されました。現在、日野江城跡は国の史跡に指定されています。

島原城

島原城は長崎県島原市にありました。
元和2年(1616)、有馬直純が延岡藩に転封となり、松倉重政が移ってきました。
重政は、日野江城が手狭であったこともあり元和4年(1618)島原城の築城を始めます。寛永元年(1624)に城は完成しました。
寛永7年(1630)、藩主の松倉重政が急死します。そこで子の松倉勝家が2代目藩主となりました。ところが勝家は、容赦ない重税を領民に掛けます。寛永14年(1637)、過酷な支配に耐えかねた領民は一揆を起こしました、島原の乱です。この一揆により松倉家は取り潰されます。勝家は幕府により斬首となりますが、江戸時代を通して切腹ではなく斬首に処された大名は、この松倉勝家だけでした。それほど幕府にとって島原の乱は衝撃的でした。

以降、島原には幾つかの家が藩主として移ってきます。島原城は藩庁として明治まで残り、明治時代に廃城となりました。現在、城跡は長崎県指定史跡に指定され天守などが再築されました。そして今日、城跡公園として活用されています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.04