有馬晴信(1/2)貿易に勤しんだキリシタン大名

有馬晴信

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人物記
名前
有馬晴信(1567年〜1612年)
出生地
長崎県
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島原城

島原城

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日本は中国などの文化を取り込みながら、独自の発展を遂げてきました。ところが戦国時代に入ると西洋の文化も日本に伝わってきます。鉄砲の伝来で戦いの様相も変わりましたが、宗教もキリスト教が伝わってきました。キリスト教は海外貿易とも結びつき、西日本、特に九州の大名の間で広まります。そのキリスト教に入信した大名に有馬晴信がいました。今回は有馬晴信について見ていきます。

肥前有馬氏とは

肥前国(現在の長崎県、佐賀県)有馬氏は平安中期、海賊行為を行った藤原純友の末裔、或いは平直澄の末裔と言われています。
この他に有馬氏は摂津国有馬郷を治めた摂津有馬氏もありますが、こちらとは無関係です。

現在の長崎県の南端、島原半島の更に南の部分に日野江城を築き、地域一帯を領した肥前有馬氏は室町時代中期、有馬貴純の時代に拡大、その子は有馬晴純の時代になると島原半島を領し戦国大名となります。そして晴純の孫が、有馬晴信でした。

有馬晴信の家督相続から沖田畷の戦いへ

有馬晴信は慶長17年(1567)、日野江城の城主だった有馬義貞の子として生まれます。
元亀2年(1571)兄の義純が早世したことで、晴信は5歳で有馬家の家督を継ぐ事になります。この当時の有馬家は、肥前国守護職も兼ねていた豊後国(現在の大分県)の大友義鎮(宗麟)に従っていました。家督を相続した晴信は、大友義鎮から偏諱を賜り「鎮純」や「鎮貴」と名乗ります(この話の中では有馬晴信と統一します)。
ところが大友義鎮は天正5年(1577)、薩摩国から勢力を拡大してきた島津家と戦い(耳川の戦い)、敗れて多くの家臣を失います。大友家は威勢を落し、九州北部のうち肥前国は龍造寺家が台頭してきました。有馬晴信は龍造寺家に屈します。

ところが天正12年(1584)、今度は北上してきた島津家と肥前国から南下して領土を拡張しようとした龍造寺家とが争います。晴信は島津家に付きましたが、これを知った龍造寺家は有馬家討伐を決めました。島津家に援軍を求めた有馬家と龍造寺家とは戦う事になりました。沖田畷の戦いです。この戦いで龍造寺家は当主の龍造寺隆信を失い衰退しました。
こうして九州は沖田畷の戦いで勝利した島津家の支配目前になります。

豊臣政権下で

九州のうち、島津家に抵抗していたのは大友義鎮だけとなりました。しかし島津家に攻められ、大友家も風前の灯です。そこで大友義鎮は近畿地方で勢力を拡大していた豊臣秀吉に助けを求めます。
天正15年(1587)豊臣秀吉による九州平定が始まると、有馬晴信は島津家と手を切って豊臣家に降ります。豊臣秀吉は九州も平定した後、天下人となります。
豊臣秀吉は日本を統一すると、朝鮮半島の征服に動き出しました。この征服の為に西日本を中心とした大名が動員されます。晴信は朝鮮の役を通じて約6年間、朝鮮半島で過ごしました。

ところが豊臣秀吉が亡くなります。秀吉亡きあとは、徳川家康が台頭してきました。徳川家康と石田三成とが戦った関ヶ原の戦いにおいて有馬晴信は、徳川側につき九州で石田方の大名を攻撃しました。こうして徳川家の時代においても有馬晴信は領地を保つ事ができたのです。

晴信とキリスト教

ところで属する大名を変えていた有馬晴信ですが、一生に渡り仕えているものがありました。キリスト教です。
有馬晴信は家督を継いだ当初、キリスト教を嫌悪していました。
ところが天正8年(1580)にキリスト教の洗礼を受けドン・プロタジオの洗礼名を持ちます。以降、熱心なキリスト教徒となり、寺社を壊して資材とし教会や学校を建てます。又、大友義鎮や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣しました。

これには海外との貿易も関わっています。海外貿易は九州の大名を中心に盛んに行われていましたが、有馬晴信は島津家や松浦家と並んで何度も派遣していました。宣教師やキリシタンはこの貿易を助け、有馬家は治める地域が小さいにも関わらず軍備を拡張できました。島津家と組んで龍造寺家と戦った沖田畷の戦いでは教皇から送られた「聖遺物」を身に付け、十字架をあしらった旗を立て戦いました。

ところでこの晴信のキリスト教信奉は負の面もあります。宣教師からゴアにあるポルトガル領に奴隷を送るよう求められ、領内から若い男女を捕まえて送るなど領民を苦しめました。天正15年(1587)豊臣秀吉がキリスト教の禁教令を出すまで、キリシタンを保護し、その後も個人的には信仰を守り続けました。

天正遣欧少年使節

天正10年(1582)、九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の使者としてローマへ4人の少年を中心とした使節団を派遣する事になりました。
これはアレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案し、

  • スペイン・ポルトガル両王に対し布教の経済的、精神的援助を依頼する
  • 実際にヨーロッパを見分させて、キリスト教の栄光と偉大さを直に触れさせることで、布教の促進に役立たせる

事を目的としていました。

4人の少年は、伊東マンショ(主席正使)千々石ミゲル(正使)中浦ジュリアン(副使)原マルチノ(副使)です。このうち千々石ミゲル(正使)は、有馬晴信の従兄弟に当たりました(千々和ミゲルは後に棄教)。

天正10年(1582)有馬セミナリヨを出発した一行は長崎から出向し、天正13年(1585)にはローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられます。帰路、豊臣秀吉のバテレン追放令などで帰国できなくなりましたが、天正18年(1590)に帰国。彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれました。

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件

慶長13年(1608)の事です。関ケ原の戦い後も肥前国日野江を領していた有馬晴信は海外貿易を行っていました。晴信の船がポルトガル領のマカオに越冬寄港をした時の話です。日本人船員が取引に関してもめて乱闘事件を起こします。ポルトガル人のマカオ司令官ペソアは乱闘を鎮圧しましたが、日本人側に多数の死者が出ました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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