武田信玄(2/2)風林火山の旗を掲げた甲斐の虎

武田信玄

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人物記
名前
武田信玄(1521年〜1573年)
出生地
山梨県
関連する城・寺・神社
甲府城

甲府城

躑躅ヶ崎館

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小田原城

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関係する事件

武田信玄が周辺国へ侵攻している頃、京都を中心とした情勢も変化します。
尾張国(現在の愛知県西部)の一領主に過ぎなかった織田信長が尾張、美濃(現在の岐阜県)を平定し2か国の領主となったのは永禄10年(1567)の頃でした。
その頃から、武田信玄と織田信長は国境を接し、外交関係が始まります。

永禄8年(1565)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を、信長の養女として信玄の息子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結びました。
その養女は男児(後の武田信勝)を出産しましたが、直後に死去します。続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しました。
織田家は武田家と三河国(現在の愛知県東部)の徳川家の両方と同盟を結ぶ一方、武田家と徳川家とは三河・遠江(現在の静岡県西部)をめぐり対立を続ける関係にありました。

三方ヶ原の戦いと晩年

永禄11年(1568)9月7日、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、近畿を勢力下に治めます。これに対して、近畿周辺の浅井家や朝倉家、三好家、六角家、あるいは石山本願寺といった勢力が信長に抵抗します。

元亀元年(1570)、信長と争っていた石山本願寺の顕如と信玄(両者の妻は姉妹でした)が、連絡を取り合い武田家上洛の気運が高まります。
元亀3年(1572年)10月、信長と対立した将軍足利義昭の呼びかけに応じる形で武田晴信は甲府を出発し京へ向かいました。
最初に隣国の遠江や三河を領する徳川家康が信玄の上洛を妨げていた為、徳川家の諸城を攻め落としながら進みます。

各地の城を落とされ追い込まれた家康は浜松城に籠城の構えを見せましたが、浜松城を包囲する事無く西へ向かう武田軍の動きを見て浜松城から出陣します。
浜松城から出陣した徳川家康でしたが、それを見越して待ち構えていた武田家と遠江三方ヶ原で交戦し、敗退しました(三方ヶ原の戦い)。

ところが勝った武田家は、三河の野田城を落とした直後から進軍を停止します。
この時、武田信玄が度々吐血し持病が悪化していたためだと言われています。信玄は長篠城において療養していましたが、家来の合議で甲斐に撤退することとしました。

元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で武田信玄は死去。享年53才でした。臨終の地点は三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)、あるいは浪合や根羽といわれています。

武田信玄の居城、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)とは

武田信玄が居城としていた躑躅ヶ崎館。
躑躅ヶ崎館は、信玄の父である武田信虎が永正16年(1519)、甲斐国山梨郡(現在の山梨県甲府市)に建てました。翌年の永世17年には城下町を整備し、家臣を城の周りに住まわせています。
信玄の時代に入ると、拡大した城下町に限界が訪れ、天文17年(1548)には庶民の屋敷建築が禁止されました。甲府盆地に作った城下町では土地の広さに限界があったためです。
武田勝頼の時代には、長篠の戦いで負けた事もあり、新府城(現在の山梨県韮崎市)を築き、躑躅ヶ崎館から移転しています。

武田氏滅亡後、甲斐を統治したのは織田家臣の河尻秀隆でした。秀隆は躑躅ヶ崎館で政務を行いましたが、本能寺の変が勃発し、秀隆はその後の混乱の中で落命します。
秀隆が討たれた後に甲斐を治めたのは徳川家康でした。
家康によって躑躅ヶ崎館は改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれました。しかし天正18年(1590)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城され、以降は甲府城を中心とした広域城下町として発展しました。

躑躅ヶ崎館は、外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中心部の建物は中世式の武家館でした。
現在、跡地には大正8年(1919)に創建された武田神社があります。

武田信玄ゆかりの場所

武田信玄公銅像
山梨県甲府駅の駅前にある武田信玄の銅像。
有志の寄付により建てられ、昭和44年(1969)4月12日の信玄の命日に完成しました。台座3.1m、信玄像3.1m、合計6.2mの堂々とした像で、川中島の戦いの姿を模しています。春になると、像の両脇に桜の花が咲き誇り、像を彩ります。
武田神社
武田神社は、武田信玄の父である武田信虎から三代にわたって武田家の当主が居住し、甲斐国の政務を執った躑躅ヶ崎館の館跡に大正8年(1919)、創建されました。信玄とその後継者である武田勝頼まで、63年にわたって住み継がれ、堀や土塁、古井戸は当時のまま保存されています。
八幡原史跡公園(はちまんぱらしせきこうえん)
別名川中島古戦場とも呼ばれる場所です。
川中島の戦いの際に武田信玄が本陣を置いたとされる場所でした。妻女山を下り武田本陣に攻勢をかけた上杉勢。そこからさらに単騎乗り込んで来て武田信玄に切りつけた上杉謙信。両将一騎討ちの伝説を生んだ地でもあります。
信玄公祭り
山梨県甲府市において、毎年4月12日(武田信玄の命日)の前の金曜日から日曜日にかけて行われている、武田二十四将を模した時代行列である「甲州軍団出陣」を目玉としたイベントです。前身は昭和22年(1947)の「桜祭り」から始まり、昭和45年(1970)に「信玄公祭り」へと名称を改められました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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