福島正則(2/2)賤ケ岳の七本槍

福島正則

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人物記
名前
福島正則(1561年〜1624年)
出生地
愛知県
関連する城・寺・神社
広島城

広島城

清洲城

清洲城

関係する事件

これを知った従軍中の諸大名は動揺しました。ところが諸大名が動揺する中、真っ先に声を上げたものがいました。福島正則です。石田三成が憎い正則は徳川家に付き三成を討つ宣言をし、これに周りの大名も同調して結束しました。徳川家と諸大名は石田三成討伐を決めます。福島正則ら諸大名は先に大坂へ向かい、途中石田方に付いた織田信秀(岐阜城主、織田信長の孫)を破ります。

関ケ原の戦い本戦において福島正則は徳川方の先頭に陣を取り、宇喜多家と戦いました。宇喜多家の前衛である明石全登に押され、一時退却しましたが一進一退を繰り返します。ところが昼過ぎ、石田方から裏切りが出た事から石田方に付いた諸将は総崩れになりました。正則は大坂城に辿り着くと平和裏に大坂城を接収することにも成功し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を恩賞として得ることができました。尾張国清洲城の城主であった福島正則は、安芸国へと支配地を変えます。

改易と晩年

慶長5年(1600)、福島正則は関ヶ原の戦いの功績として広島に領地を得ました。
ところが領地に着いた直後から城の築城や改修を積極的に行います。ところがこれを知った徳川家康は、無断で城の改修を行う正則に激怒します。家康を恐れた正則は急いで築城した城を破却しましたが、しこりを残しました。また正則は徳川家に従順に従っていましたが、豊臣秀吉の子、豊臣秀頼に対しても主として立てていました。

ところが徳川家康と豊臣秀頼とは戦う事になります。大坂の陣です。正則に対して豊臣秀頼は味方するよう要請しましたが、正則は拒絶します。正則は秀頼に兵糧の横流しや親族を浪人として送り込むなど陰ながら支援しましたが、正則自身は江戸で留守居役を命ぜられ留まっていました。

こうして福島正則を引き立てた豊臣家は大坂の陣で滅亡しました。大坂の陣が終わった後の事です。元和5年(1619)、広島城の石垣などを無断修繕したことが江戸幕府に咎められました。その対処に正則が怠ったため、広島から領地を減らされて越後国(現在の新潟県)魚沼郡4万5000石に移されます。

越後国へ移った後は、長男の福島忠勝に家督を譲り隠居しました。ところが元和6年(1620)、忠勝が亡くなった為、正則は領地の約半分を幕府に返上します。

そして寛永元年(1624)、正則はこの地で亡くなりました、享年64。福島家は幕府の検死役が到着する前に、家臣が正則の遺体を火葬したため対応が不十分として残りの2万石も没収しました。ここで大名としての福島家は終わりますが、嫡男の忠勝の子が幕府に召し出され、旗本として続くことになります。

日本号と黒田節

福島正則は、豊臣秀吉から与えられた「日本号」(別名、「呑み取りの槍」)と呼ばれる自慢の槍を持っていました。ある日、黒田長政の家臣である母里友信が使者として正則の屋敷を訪れました。

母里は酒豪として知られていました。酒好きの正則は酒豪の母里に酒を勧めるも、使者として訪れていた母里は固辞します。そこで正則が「大杯を飲み干せば好きなものを進呈する」と言ったところ、母里は見事に酒を飲み干し日本号を所望しました。

正則は約束した以上しかたなく、母里に日本号を与えます、これが日本号の別名「呑み取りの槍」と呼ばれるようになった所以です。ここから福岡市の民謡「黒田節」ができました。

ところが日本号を与えた正則は、いたく後悔します。母里の主人である黒田長政を通して還すように交渉しましたが、母里も頑として拒否したので、正則と黒田長政との関係も悪化しました。これを見かねた竹中重利は両者の間を取り持ち和解し、その和解の証として長政の兜「大水牛脇立兜」と正則の「一乃谷前立兜」とを交換しました。
因みに日本号は天下三名槍の1つとされ今日に至り、福岡市博物館において常設展示されています。

福島正則の所縁の地

福島正則生誕地碑
愛知県あま市は福島正則生誕の場所です。永禄4年(1561)、桶屋の息子としてこの地に誕生した福島正則は豊臣秀吉子飼いの武将として成長し、戦国の世を歩みます。
あま市二ツ寺には生誕の碑が建てられ、付近には正則の菩提寺もあります。また福島正則ゆかりの場所として、周辺には正則橋や正則小学校などもあります。
福島正則像
福島正則の銅像は名古屋市伏見駅からほど近い納屋橋の上に設置されています。慶長15年(1610)、名古屋城築城の資材運搬を目的として堀川は作られました。この堀川の掘削を行ったのが福島正則(或いは命じられた大名の一人として)です。堀川は名古屋市の重要な水脈として都市の発展に貢献し、それを記念して堀川近くの納屋橋に福島正則の像が建てられました。

福島正則にまつわるお祭り

備後「お通り」
備後の「お通り」とは広島県庄原市東城町において、毎年11月初旬に行われるお祭りです。江戸時代から400年以上続く伝統行事で絢爛な母衣、華童子、大名行列や武者行列など100人で練り歩きます。「お通り」の始まりは、広島に領地を与えられた福島正則の三家老の一人、長尾一勝が備後国東城五品嶽城主に任じられます。その長尾一勝は関ヶ原戦勝を祝い、祭礼御興行列に武者行列を加えたのが祭りの興りと言われています。

福島家が改易されると、その後を受けて浅野家が入ります。浅野家の治めた時代、東城での秋祭りは11月1日から5日間に亘って催され「五日催し」と呼ばれました。さらに享保4年(1719)浅野家家老であった東城浅野家の願いで、川西八幡宮天神社の神輿が東城へ神幸することになり町内の街筋を巡行し、八幡宮に還御する神輿行列を「お通り」と呼ぶようになりました。それらの伝統から今日まで秋に時代行列を行う「お通り」を催しています。

呼子大綱引
呼子大綱引は、佐賀県唐津市において6月の第1土曜日(子供綱)、日曜日(大人綱)の2日間にわたって行なわれるお祭りです。国指定の重要無形民俗文化財に指定されています。町民がウラカタ(岡組)とサキカタ(浜組)とに分かれて、ドラと火矢の合図で「ヨイサーヨイサー」のかけ声と共に大綱を引き合い、三回勝負を行います。2回勝った方が勝者で、ウラカタ(岡組)が勝った年は陸の豊作、サキカタ(浜組)が勝った年は海の大漁と伝えられています。
もともとは朝鮮出兵のおり、名護屋城に滞陣していた福島正則と加藤清正とが将兵の士気を高めるために、軍船の綱を用いて引かせたことが始まりとされています。

清州城

福島正則が豊臣秀吉から与えられた清洲城。
清洲城は応永12年(1405)、管領斯波義重によって築城されました。文明10年(1478)頃に守護所が清洲城に移転され、尾張国の中心地となります。その後、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として栄えました。

弘治元年(1555)織田氏の内紛により織田信長が清須城を奪うと、信長は那古屋城から
移り約10年間拠点とします。天正10年(1582)本能寺の変で信長が斃れると、清洲城において清洲会議が行われました。城は信長の次男・織田信雄が相続します。近年ではこの信雄が相続したころ、天正の大地震がおこり城も大きな被害を受けたと考えられています。信雄は大改修を行い、清洲城を復興しました。

豊臣秀吉による小田原征討後、秀吉は織田信雄に領地の移動を命じます。ところが信雄はこれを拒否。これにより信雄は秀吉により領地を削られ、清洲城も取り上げられまました。城は秀吉の甥である豊臣秀次の領地に組み込まれた後、文禄4年(1595)には福島正則の居城となりました。正則はこの清洲城の城主であった時に関ヶ原の戦いに参加しました。

なお、関ヶ原の戦いの後、尾張国は尾張徳川家の統治になり、徳川家康は尾張国の拠点を名古屋へと移す命令を行い、清洲城とその城下は名古屋の資材として使われ廃城となりました。

広島城

室町時代後期、中国地方を治めていたのは毛利家でした。
毛利輝元の時代、豊臣家に属し戦いの機会も徐々に減っていきました。そこでより領内に統治のしやすい場所と城を求めて建てたのが広島城です。天正18年(1590)に竣工し、慶長4年(1599)に完成します。

関ケ原の戦いの後、広島を治めたのが福島正則です。正則は石工を生業とする穴太衆を雇い、大規模な改築を行います。主に町人町や街道を改修しより経済の中心地となるよう目指しました。ところが江戸幕府に無届で行われたこの改築作業は徳川家康を怒らせ、後に河川の氾濫からの復興作業も無届とされたことから福島家は領地を取り上げられてしまいます。

福島家の後に広島を治めたのが浅野家でした。広島城は福島正則の時代にほぼ改修を終え、浅野家の時代には櫓の土台部分の改修など小規模な改築に留めました。こうして浅野家の統治の下、広島城は明治を迎えます。明治に入ると明治7年(1874)に起こった火災や解体によりその建物の多くは失われていきました。

広島城は、城のあった場所の名を「己斐浦(こいのうら)」と古くは呼ばれた事から「鯉城」という別名が付き、現在でも鯉に由来する名が広島県で付けられています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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