松永久秀(2/2)実力で立身出世を遂げた男

松永久秀

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人物記
名前
松永久秀(1508年〜1577年)
出生地
大阪府
関連する城・寺・神社
信貴山城

信貴山城

多聞城

多聞城

関係する事件

大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に従っていましたが、信長が10月に家臣の佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、協力して次第に大和の平定を進めていく。
一段落した12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上しました。永禄12年(1569)も大和平定を継続、対する順慶は没落していきます。

元亀元年(1570)、信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救いました(金ヶ崎の戦い)。
以後、事実上の信長の家臣として石山本願寺攻めに参加しますが、次第に久秀と義昭は反目を深め、それと共に義昭を擁する信長との関係が悪化していきます。

元亀3年(1572)に入ると、久秀と義継は細川昭元・畠山秋高・遊佐信教・伊丹親興・和田惟長(惟政の子)らを味方に引き込もうとするも、義昭の働きかけによって誘いには応じず、わずかに三好為三しか味方にできませんでした。
しかし、三好勢力の再結集には成功しつつあった久秀らは朝倉義景や武田信玄、本願寺などの反信長勢力と接近、また義昭と信長の関係悪化に伴って、反信長へと移行していきます(信長包囲網)。翌元亀4年(1573)2月、義昭が信長と決別して挙兵をすると、義昭と久秀・義継は正式に和睦を結びました。

しかし、元亀4年4月、包囲網の有力な一角である信玄が西上作戦中に病死、武田氏は撤退します。 7月に足利義昭が信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、11月に三好義継も信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死(若江城の戦い)と反信長網は敗れ去りました。12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏。三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解してしまいました。翌天正2年(1574)1月には岐阜にて信長に謁見、筒井順慶も信長に服属しています。

久秀の最期

天正5年(1577)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応し、本願寺攻めから勝手に離脱します。
信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確にしました。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったと言われています。

信長は、嫡男の織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲。佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答したとされています。
織田軍の攻撃により、久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害。首は安土へ送られ、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬りました。享年68歳(一説には70歳)。
10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であったこともあり、兵は春日明神の神罰だと噂したと言われています。

久秀の逸話

茶人としての久秀
武野紹鴎に師事しており、茶人としての交流は広いものがありました。古天明平蜘蛛を所持していたことでも有名ですが、他に九十九髪茄子を一時所持するなど、その他にも名物を多数所持していたことでも有名です。
当時の茶人としての地位は高く、野村美術館には、天正3年(1573)1月22日に、久秀自ら作成した茶杓「玉椿」が所蔵されています。
織田信長とは同じ茶の湯を嗜む同士で、信長に招かれてその点前で茶を頂いた時に「いつまでもお手前の九十九髪の茶入れで数寄をなされよ」と言葉を信長からもらい、久秀もその恩返しのためか数寄屋を新しくしたと言われています。
一方で徳川家康が久秀と面会して丁寧に挨拶を交わしているのを見た信長が「天道に背く行為、さほどに心許せる男にあらず」と述べて礼儀正しくする必要は無いと発言したと伝わっています。
灸をすえる習慣
中風の予防のため、毎日時刻を決めて頭のてっぺんに灸をすえていたと言われています。
自害の直前にも灸の用意を命じ、部下から「この期に及んで養生もないでしょう」と言われたが、久秀は「百会(脳天)の灸を見る人は、いつのための養生だと、さぞおかしく思うであろう。だが我は常に中風を憂う。死に臨んで、俄かに中風を発し、五体が動かなくなれば、きっと死が怖くてだろうと笑われる。そうなれば今までの武勇は悉く無益なことになってしまう。百会は中風の神灸なれば、当分その病を防ぎ、快く自害するためのものである」と語って灸を据えさせた後に自害したと伝わります。
久秀は年老いても自害を見事に果たせる武将でありたいとの思いがあったものと推測されています。

久秀を祭る「へぐり時代祭り」

奈良県の平群町に関わりのある歴史人物偉人たちが町内を練り歩く「時代行列」を中心に、道の駅「くまがしステーション」を舞台とした催しを行う、春の一大イベントがあります。
地域の住民を中心に、企画立案から参加まで楽しむイベントとして親しまれています。平城遷都1300年祭を契機に立ち上げられ、継続的に実施されています。毎年、4月最終週の祝日に開催。

倭建命(やまとたけるのみこと)をはじめ、古い時代から順番に平群木菟(へぐりのずく)、聖徳太子、役行者、長屋王と吉備内親王、平群廣足(長屋王に仕えたとされる倭舞の名人)、行基菩薩と続き、戦国武将の松永久秀、島左近(清興)と華やかに行列が練り歩きます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.04