毛利輝元(2/2)中国地方のプリンス

毛利輝元

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人物記
名前
毛利輝元(1553年〜1625年)
出生地
広島県
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萩城跡

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広島城

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大阪城

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関係する事件

慶長5年(1600年)5月、家康は米沢にいる上杉景勝へ詰問する為に上洛を促しましたが景勝はこれを拒否します。この拒否を秀頼に対する謀反の理由として、家康は上杉討伐の諸将を引き連れて会津へと出兵しました。
翌6月、輝元は石田三成などと協議し徳川家康に対する軍を決起します。この反徳川には多くの諸将が集まり、その諸将から推挙され毛利輝元が総大将に選ばれました。輝元は大坂城にあって西軍を指揮し、毛利家の軍勢を派遣したり諸将の軍勢を動かしたりするなどしましたが、最後まで輝元本人は大坂城から動くことはありませんでした。

同年9月、徳川家康と石田三成とが関ヶ原で激突し家康が勝ちました。反徳川派であった毛利輝元は、関ヶ原で軍勢が敗れると大坂城を退き大坂にある毛利家の屋敷へ退去します。
こうして毛利輝元は関ヶ原の戦いの首謀者である石田三成とは別に、総大将であったという責任を負うことになりました。

輝元の最期

この関ヶ原の戦いを経て毛利輝元は、徳川家に刃向かい関ヶ原の戦いに敗れた総大将、という難しい立場に追い込まれます。
慶長5年(1600)10月、毛利氏の所領は中国地方から周防・長門(現在の山口県)へ減じられます。また輝元は責任を認め形だけは出家して家督を嫡男の秀就に譲りました。ここから毛利家は輝元と秀就の二頭体制を敷きました。慶長8年(1603)には居城の場所を萩と定め城づくりを始めます。

大坂の陣が始まると輝元も毛利家の大将として大坂へ出陣しようとしましたが、病にかかり子の秀就が毛利家の大将として出陣します。この間、或いはこの大坂の陣以降もですが輝元には悩みの種を抱えていました。
輝元の下で実務を担当する輝元子飼いの家臣、毛利家に古くから仕える家臣、毛利家の親族、
後になって毛利家を支えるようになった家臣、といった毛利家を支える内部の対立です。この問題に輝元は融和を図る一方で、追討や自害に追い込み家臣の統制に腐心しました。

こうして江戸幕府に疑念を抱かれかねないよう対処する一方で、家臣の統制に苦慮した輝元は元和9年(1623)江戸から一時帰郷した秀就に対して正式に家督を譲り、その2年後の寛永2年(1625)4月に亡くなりました、享年73。
戦国時代から関ヶ原を経て江戸時代まで、中国地方を舞台に戦った毛利輝元の人生はこうして幕を閉じました。遺骸は萩にある天樹院で葬られ、墓所は現在もそこ(旧天樹院)にあります。

広島城

毛利家は、安芸国のうち山陽道と山陰道とを結ぶ吉田郡山に堅固な山城を持っていました。ところが豊臣秀吉が天下を掌握し戦いが無くなると、城の役割も、堅固さから政治や商業の中心地となるシンボルへと変わります。

そこで毛利輝元は海上交易路である瀬戸内の水運に近く、城下町を広げられる海沿いに拠点を移す事を考えます。更に天正16年(1588)輝元は、大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われています。天正17年(1589)領内に城を築く土地を調査した結果、「最も広い島地」である五箇村に築城することに決め築城を開始します。慶長4年(1599)には築城が完了し、この頃より広島と呼ばれるようになりました。

ところが関ヶ原の戦いで毛利家は責任を負い、領地を削られます。安芸国は福島正則が統治するようになり、広島城も正則により改築されます。現在の広島城を中心とした大規模な街の原型はこの当時にできたと言われますが、この大規模な改築の届け出が幕府になかったので家康は激怒したそうです。
更に元和5年(1619)福島正則は洪水による改築を行いましたが、これも無届であった為に正則は領地を取り上げられてしまいました。この福島正則の後に入ったのが浅野家です。浅野家は広島城に入ると以降、明治まで統治を続けました。

広島城は別名を「鯉城(りじょう)」と呼ばれ、その昔この地を「鯉」と呼ばれたからとも、堀に鯉がたくさんいたから、城が黒かったからそう呼ばれたと伝わっています。
現在でも鯉城通りや鯉城会館など鯉城にちなんだ名前が多く、プロ野球広島東洋カープのカープ(鯉)もここから来たそうです。

萩城

関ヶ原の戦いで敗れた西軍の総大将毛利輝元は周防国、長門国の2ヶ国に領地を減らされました。そこで広島城から新たな拠点として築城した城が萩城です。慶長9年(1604)に築城を始め、安芸国から移って来た毛利輝元はこの時から入城し慶長13年(1608)に築城は完了します。

萩城は、指月山の山城と山麓にある平城からなり、平城にあった本殿は藩主居城と政庁を兼ね、幕末まで統治の拠点となります。ところが幕末も終わりの文久3年(1863)、幕府に届け出無しで毛利家は藩の拠点を萩から山口に移します。こうして萩城は藩の拠点としての役目を終えました。
更に明治時代に入ると明治7年(1874)、萩城は廃城令により石垣や堀を残して破却されました。そして現在、城跡は指月公園として整備され市民の憩いの場所として活用されています。

毛利輝元 上月公園の銅像

さて、毛利輝元はどのような人だったのでしょうか。
毛利家は輝元の祖父である毛利元就や父の毛利隆元がそうであったように国人領主的な立ち位置が続きました。ところが輝元は室町幕府将軍足利義輝から偏諱を賜ったので最初から国を治める大名として元服し、統治を行います。

その輝元に関する人物評として、朝鮮の役で捕虜となった姜沆は『看羊録』において輝元を、「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており懐の深い人物であったようです。また、同じく姜沆は広島の繁栄ぶりを見て、「物力に優れ、富んでいるのは、京に例えられる」と『看羊録』に記すなど統治能力の高い大名として映ったようです。

このような輝元の容姿はどういったものだったのでしょうか。輝元の像は萩城跡指月公園の二の丸南門跡の所に銅像として建てられ、ありし日の厳格な姿を残しています。

萩時代祭り

山口県萩市は、毛利輝元が安芸国より移って以来約250年間の間、毛利家の藩庁として拠点の置かれた場所でした。その在りし日の姿を現すお祭りが、毎年11月に行われる「萩時代まつり」です。
総勢200名の奴姿や袴に裃姿の者が御駕籠に従う行列が城下町を練り歩きます。

また午後からは中央公園から金谷天満宮を目指して、毛利歴代の藩主や幕末に活躍した高杉晋作の率いる奇兵隊、萩大名行列などが練り歩く「萩時代パレード」が繰り広げられ、山口県の歴史を彩ります。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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