長曾我部元親(2/2)土佐の出来人

長曾我部元親

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人物記
名前
長曾我部元親(1539年〜1599年)
出生地
高知県
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撫養城

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天正10年(1582)信長は、息子である神戸信孝を総大将とした長曾我部討伐隊を編成します。元親は斎藤利三に宛てて恭順の意向を示しましたが、信長は受け入れず遠征軍の準備を始めました。
この長曾我部家と織田家との間に立ち板挟みとなったのが、石谷頼辰や斎藤利三の主人、明智光秀です。それまで長曾我部家に対する折衝を行っていた光秀は織田信長に対して不審を抱きました。この不審が本能寺の変を起こした原因と一つとして考えられています。

そして6月2日、明智光秀は信長討伐の軍を起こし、本能寺において織田信長は亡くなりました。 長曾我部元親は織田信長の介入という事態を運よく切り抜けたのです。

四国統一

本能寺の変が起こり、織田信長は自害しました。すると京を中心とした畿内では、織田家内部の対立が起こり、政治的な空白期間が生まれます。
長曾我部元親はこの空白期間を利用して四国の統一に邁進しました。三好康長など三好家が抵抗していた讃岐国、阿波国を堕とし、天正13年(1585)までには伊予国もほぼ手中に収め四国を統一しました。
元親が四国を統一している間。織田家では織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、本能寺の変を起こした明智光秀を討ち台頭してきます。そして織田家の有力な家臣であった柴田勝家と秀吉は対立しました。

長曾我部元親は柴田勝家に誘われて手を結びます。結果、羽柴秀吉が権力争いに勝ち柴田勝家は自害しました。次いで羽柴秀吉は織田家の同盟者であった徳川家康と対立します。
長曾我部元親はまたもや徳川家康に誘われて手を結ぶ事にします。羽柴秀吉は徳川家康に戦いで負けましたが、外交力で上回り家康を臣従させる結果になりました。
こうして長曾我部元親は羽柴秀吉と対立していきました。

豊臣(羽柴)秀吉へ臣従

羽柴秀吉は度々敵対関係となった長曾我部元親に対して脅威を覚え、四国侵攻を模索します。そこで元親は領地の割譲を条件に和睦を試みますが物別れとなりました。
秀吉は弟の羽柴秀長を総大将に10万を超える大軍を催します。元親もそれに対して、四国の海岸線の防備を固めました。

天正13年(1585)5月、播磨国(現在の兵庫県)から黒田孝高らを讃岐へ、中国地方から毛利家を伊予国へ、紀伊国(現在の和歌山県)から羽柴秀長が阿波国へ渡海します。元親は家臣の言を受け入れ降伏し、土佐国一国を残して領地を割譲しました。こうして長曾我部元親は四国の覇者から羽柴秀吉の傘下に納まります。

秀吉は、元親が降伏した翌年の天正14年(1586)、九州の島津家を討つために遠征を行います。長曾我部元親は長男の信親を連れて従軍し、九州へ向かいました。ところが秀吉から派遣された軍監(目付け役)の仙石秀久の指示により勝手に戦端を開き島津家の罠に落ちます。戸次川の戦いで長男の信親は討死、元親は四国へ逃れました。

元親の最期

天正16年(1588)、本拠地を岡豊城から大高坂城(現在の高知城の場所)へ移転します。 さらに家督継承に関して長男の信親が亡くなった事から次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に譲ることを決めます。この決定には家臣が反対、元親は反対した比江山親興や吉良親実などを相次いで切腹させてしまいました。元親は長男の信親が亡くなった事で英雄の気概を失い、意固地な性格へと変わってしまいます。

その後、豊臣秀吉が起こした関東遠征や朝鮮の役にも参加します。慶長3年(1598)8月豊臣秀吉が死去します。秀吉が亡くなると中央政権では政情が不安定になります。元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、その年の暮れには土佐国に帰国しました。
翌慶長4年(1599)3月、元親は三男の津野親忠を幽閉した後、4月には病気療養のために上洛します。しかし病状は思わしくなく死期を悟った元親は5月、4男の盛親に遺言を残して5月19日に死去しました、享年61。
高知県高知市長浜天甫山にあった天甫寺(廃寺)に葬られ、現在の墓所は天甫寺山南斜面
にあります。

その後の長曾我部家

長曾我部元親の死後、長曾我部家は迷走します。元親の長男信親は戸次川の戦いで戦死し既になく、次男香川親和も病死していました。

三男の津野親忠は、元親が溺愛していた四男の長曾我部盛親との家督争いに巻き込まれ、関ヶ原の戦いの後に盛親によって殺害されます。

四男の長曾我部盛親が元親亡き後の長曾我部家を継ぎましたが、家督相続直後に起きた関ヶ原の戦いに参加する事になります。事情が分からないまま石田三成が主導する西軍に参加、本戦にも参陣していました。

結果、徳川家康の東軍が勝利し敗れた側に付いた長曾我部家は土佐国を取り上げられ盛親は京都に隠棲します。そして後年起こった大坂の陣に参加しましたが豊臣家は敗北。戦後、盛親は捉えられ処刑されました。ここに長曾我部元親の嫡流は途絶える事になります。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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