豊臣秀頼(2/2)時代の狭間に翻弄された二代目

豊臣秀頼

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人物記
名前
豊臣秀頼(1593年〜1615年)
出生地
大阪府
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4月には梵鐘が完成し、総奉行の片桐且元が、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に依頼します。且元は事前に、駿府に隠居していた徳川家康に大仏開眼供養の導師や日時の報告など、徳川幕府を刺激しないよう逐一報告していましたが、開眼供養と大仏殿供養の日取り・供養時の天台宗・真言宗の上下を巡って意見が食い違い、対立してしまいます。
同年7月26日、家康は且元宛に「開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわない。また、内容に問題があるため開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期するように」と命じました。

さらに、8月には家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させます。ここで、林羅山は「鐘の銘文に家康呪詛の意図がある」と判断しますが、一方で五山の僧たちは「諱を犯したことは手落ちと言えるが、家康呪詛の意図まではない」と回答しています。
豊臣方は、「あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだ」と弁解しますが、幕府は納得しませんでした。
豊臣秀頼の存在が徳川幕府にとって邪魔だったこともあり、この事件を機に家康は大坂城を攻めることを決め、豊臣方も戦の準備に入ることになります。

大坂冬の陣と夏の陣 秀頼の死

豊臣秀頼は、福島正則や加藤嘉明など秀吉恩顧の大名に援軍要請をしますが、大名で豊臣方に味方する者は現れませんでした。その一方で、大坂城には真田信繁(幸村)、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登といった関ヶ原の戦いで改易された元大名・主家が西軍に味方して改易された結果浪人となった者が続々と大阪城に集まります。

浪人衆は徳川家への恨みや一旗揚げたいと願うものなど、理由は様々でしたが士気は旺盛だったものの、寄せ集めでまとまりに欠けていました。さらにこれら浪人衆と大野治長・秀頼の母君である淀君らが対立し、最後まで統制が取れなかったことも敗因とされています。当初、真田信繁(幸村)たちが京都進撃を唱えても、大野治長などが頑なに反対、大坂城籠城に決まりました。

大坂城での戦闘では浪人衆の活躍・大坂城の防御力で、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも大きな堀に阻まれてしまいます。真田丸の戦いで幕府方が損害を受けたとされています。幕府軍は城内に心理的圧力をかけるため、昼夜を問わず砲撃し、本丸まで飛来した一発の砲弾が淀君の居室に着弾、侍女を粉砕して震え上がらせたと言われています。
豊臣方・幕府軍双方とも食糧・弾薬が尽き始めたことで、家康は和議を提案し豊臣方には反対もあったものの、和議が結ばれました。

その後、和議は大坂城の堀の破却を条件に含んでいましたが豊臣方が履行しなかったため、徳川幕府が堀をすべて埋めただけでなく、城郭の一部も破壊。大坂城は本丸だけとなり、堅牢を誇った防御力が一気に低下してしまいました。
慶長20年(1615)、豊臣方は浪人の総追放や大坂城退去を拒否、堀を掘り返し始めたため、家康は和議が破られたと戦の再開を宣言、大坂夏の陣が勃発します。

白の防御力低下と、軍事力で劣った豊臣方は、家康・秀忠父子が大坂に布陣したところで決戦に挑みます。(天王寺・岡山の戦い)ここで、真田信繁(幸村)は豊臣軍の士気を高めるために秀頼が前線に出馬することを望みますが実現せず。この天王寺・岡山の戦いで豊臣方は有力な武将だった真田信繁(幸村)らを失い、ついに大坂城に徳川方がなだれ込みます。秀頼は淀君や大野治長らと共に自害して果てました。享年23。

大坂城落城後も囁かれた秀頼生存説

大坂夏の陣で大坂城が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから当時は生存説が根強くささやかれていました。

例えば、平戸にいたリチャード・コックスが残した東インド会社への手紙では「薩摩・琉球に逃げた」とあり、ジャン・クラッセの『日本西教史』には「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」と言う記述があります。

当時の京に流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと『幸村君伝記』にも記載されていて、庶民の間では生存しているとの噂が絶えなかったとされています。

また、『採要録』には「薩摩国谷山に元和初めに浪士が住み着いて、国主からの家に住んでいた。酒好きでいつも酔って、あちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」と呼ばれていた。国主から手出し禁止を命じられ、住民は密かに秀頼公ではないかと噂していた」と伝わっています。実際、鹿児島市下福元町には伝秀頼墓と伝わる塔もありますが、これらはあくまでも伝説で事実とは異なります。

しかし、当時の大坂の庶民たちは豊臣秀吉・秀頼親子に同情的であったと言われており、こうした伝説も非業の死を遂げた秀頼に対する同情から出てきたものと言えるでしょう。

秀頼の墓所と首塚

昭和55年(1980)に行われた大坂城三の丸跡の調査では、発掘現場から豊臣秀頼のものと思われる頭蓋骨が出土しました。その後詳細に調べられ、この骨が人為的に丁寧に埋葬されていること、介錯の跡や周囲からの出土品などから考察して秀頼のものと断定されました。

秀頼が没してから368年ぶりの昭和58年(1983)、秀頼が再興に尽力した所以がある清凉寺に首塚が造られ、首が納められました。首塚の脇には大坂の陣諸霊供養塔も並べて造られています。
ちなみに、秀頼の墓は京都の三十三間堂の東向かいにある浅井長政の院号から名を取った養源院にあります。

秀頼と大坂城

現在は大阪城と字が違いますが、当時は大坂城とされていました。
現在残っている大阪城は、豊臣時代の遺構は大坂の陣で焼けてほぼ地中に埋まっており、豊臣方が滅亡した後、徳川秀忠が元和6年(1620)から寛永6年(1629)にかけて実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構です。

明治時代になると、政府は城内の敷地を陸軍用地に転用します。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられたため、太平洋戦争時は米軍の爆撃目標にもなりました。
現在の天守閣は、昭和3年(1928)、当時の大阪市長だった關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇の即位記念事業として整備が進められたもので、戦時中も焼失を免れて現在に至ります。

今では、周囲には大阪城公園が整備されて市民の憩いの場となっています。梅や桜をはじめ、季節折々の花が植えられており、世界中からも観光客がやってくるなど、大阪のシンボルとして愛されています。他にもコンサートなどのイベントが行われる大阪城ホールは老若難所が訪れ、公園内を走るランナーたちも多く、年中賑やかな様子はまさに太閤さんが愛した楽しい雰囲気そのものかもしれません。

また、大阪城公園内にある豊國神社は、父の豊臣秀吉や叔父の秀長と共に秀頼も祭神として祀られています。戦国武将好きをはじめ、勝ち運を願う人たちが訪れており、隠れたパワースポットです。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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