明智光秀(2/2)戦国屈指の智将

明智光秀

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人物記
名前
明智光秀(1528年〜1582年)
出生地
岐阜県
関連する城・寺・神社
福知山城

福知山城

関係する事件

天正4年(1576年)1月15日に八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走することになりました。
同年11月7日(1576年11月27日[注釈 2])、最愛の正室だった煕子が坂本城で病死。深い悲しみに襲われたと言われています。この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていましたが、安定した本拠地として亀山(現在の京都府亀岡市)に城を築くことを決め、翌天正5年(1577年)1月から準備を始めました。

天正6年(1578年)3月、氷上郡の赤井直正が病死すると、再度丹波に出陣し園部城の荒木氏綱を降伏させますが、4月29日には毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣されたため、9月に入ると丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であった馬堀城までも一時占拠さる事態に陥ります。光秀は急ぎ亀山城に入り。奪われた城を奪回しました。

天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入っていましたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死してしまいます。8月9日、黒井城を落としついに丹波国を平定しました。さらに、細川藤孝と協力して丹後国も平定しています。

天正8年(1580年)、信長からは感状を受け取ります。この功績で、丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石となりました。光秀は亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名しました。黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れています。

本能寺の変

天正10年(1582年)5月、明智光秀は安土城で徳川家康たちをもてなす饗応役に抜擢されましたが、不手際があったとされ任務を解かれてしまいます。その後、豊臣秀吉の毛利征伐の支援を命じられ、6月2日早朝に出陣することになりました。その超区全に愛宕山に詣でて連歌会に参加しています。
出陣の途上で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれています。

重臣以下の軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長様が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」と言い、京都へ向かったとされています。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずしか近くに置いていなかった信長は奮戦するも、寺に火を放ち自害したと伝わっています。光秀は必死になり信長の遺骸を探しましたが、とうとう見つけることはできずに終わっています。

その後、二条新御所にいた信長の嫡男・織田信忠と従兄弟の斎藤利治、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちを共に討ち取りました。

本能寺の変を起こした理由については、未だに分かっていません。信長への怨恨説はじめ、朝廷黒幕説など様々な説がありますが、決定的なものはありません。

山崎の戦いと最期

光秀は本能寺の変後。京都を押さえてすぐに信長・信忠父子の残党追捕を行います。
さらに安土城への入城と近江を抑えようとしますが、瀬田橋を焼かれて琵琶湖を渡れなくなったため、仮橋の設置に3日間かかっってしまいました。
光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日までに近江をほぼ平定、6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えています。

光秀は、残る織田家重臣との戦いに備えます。しかし、姻戚関係があった細川幽斎・忠興親子は光秀へ味方することを拒否。他にも、筒井順慶など畿内の武将たちは毛利攻めから戻って来た豊臣秀吉に味方したため、大きく目算が狂ってしまいました。高山右近など摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘しています。

本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国路の備中高松城から引き返してきた豊臣秀吉軍と、本能寺の変後から11日後の6月13日天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で激突しました。
決戦時の兵力は、豊臣軍2万7千人に対し明智軍1万7千人。激戦はあっという間に決着が付き、光秀は敗走します。同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)で落ち武者狩りをしていた百姓に討ち取られました。

明智光秀と福知山城

福知山城は市内の小高い丘の上に建っています。天正7年(1579年)、丹波国を平定した・明智光秀によって築かれた城です。
光秀の後は、関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成しています。
山陰道を押える要衝地にあるこの城を、近世城郭として改修を行い、現在に残る姿としました。
明治6年(1873年)の廃城令により石垣と一部の遺構を除き大部分が取り壊されましたが、昭和61年(1986年)に、市民の瓦一枚運動などにより天守閣が復元。
現在は福知山城公園として整備し、市の指定文化財として大切に守られています。光秀は、善政を敷き、賢君だったとして領民に慕われたと記録に残っており、福知山光秀ミュージアムでは、現存する重要な資料をもとに明智光秀の軌跡を実感できる展示エリアを設けています。

明智光秀にまつわる祭りやスポット

御霊神社
「本能寺の変」から100年以上経った後、当時の福知山城主・朽木稙昌が、宇賀御霊大神を祀る祠に明智光秀の御霊を合祀して、御霊神社を創建したことが始まりです。
光秀の善政を語り継いできた領民たちは大いに喜び、光秀公のための「御霊会(ごりょうえ)」はにわかに盛大になったと伝えられています。
神社では、明智光秀の霊を祀り、光秀直筆の書状や家中軍法を所蔵しています。また、神社横の御霊公園には、昭和28年の台風13号の浸水位の標識や人形が飛び出すからくり時計などがあります。
福知山お城まつり
福知山に春を告げる伝統の祭りで、明智光秀築城の福知山城の天守閣が昭和61年に再建されたことを記念して、「商工観光祭」「科学と日光博覧会」「福知山鬼まつり」と歴代開催されてきたまつりをまとめて、「福知山お城まつり」にし現在に至ります。 明智光秀にゆかりのある場所(福知山城や、御霊神社)を会場としており、福知山の食・ステージショー・パレードなど市民のとって楽しみな祭りとして親しまれています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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