明智光秀(1/2)戦国屈指の智将

明智光秀

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人物記
名前
明智光秀(1528年〜1582年)
出生地
岐阜県
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福知山城

福知山城

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戦国時代、戦国大名として歴史に名を残した武将たちの下には体格の良い武勲に優れた者・知略に優れた者・築城の才を持った者など、さまざまな能力を持った武将たちがいました。明智光秀は、特に知略に優れ、朝廷や公家との人脈を持ち、連歌や茶の湯などの才に恵まれた文武両道な武将です。本能寺の変を起こし、謀反人とも言われる明智光秀の生涯は一体どのようなものだったのでしょうか。

謎の多い生誕から青年期

明智光秀の生まれた年は、信頼性の高い同時代史料からは判明していません。後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説が有力と言われています。

生誕地についても、『明智軍記』では美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われており、美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実のようです。越前国に残る伝承では、一乗谷周辺の栃泉町の小字「坊の城」は光秀が幼少期に母とともに居住した場所とされており、同町内の小字「西畦」で光秀が薪割りをしたとの伝承も残っています。他にも近江で生まれたとする説もあります。

青年期についても同様に不明なことが多く、一般的に光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、『明智軍記』には、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したということになっています。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り、10年間仕えて長崎称念寺門前に居住していたと言われています。

光秀と足利義昭

永禄9年(1566年)9月、足利義昭が朝倉家を頼り敦賀にやってきます。しばらくこの地で過ごしたのち、永禄10年(1567年)11月、朝倉氏の本拠地である一乗谷(現・福井県福井市)の安養寺に移動して永禄11年4月15日に元服しました。
当時、光秀は安養寺から3km離れた東大味に居住していたと伝わっています。室町幕府を再考したい義昭は、各地の戦国武将に援助を求めており、朝倉義景を頼ったため、この時点で光秀は義昭と接触を持つことになります。
しかし、義昭が上洛を催促しても朝倉義景は動く気配を見せません。光秀は「義景は頼りにならない。織田信長を頼ろう」と信長を勧めます。

義昭は永禄11年(1568年)6月23日、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請します。
7月頃、美濃国を併呑し、北伊勢を攻略した信長は義昭に「上洛のお供をしたい」と申し出たため、義昭は越前を去り、同年7月22日、美濃国岐阜に到着しました。

足利義昭から織田信長の家臣へ

明智光秀は、永禄11年(1568年)9月足利義昭の上洛に加わります。翌年、永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は義昭が宿としていた本圀寺を急襲しました(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀も加わっていたとされています(『信長公記』)。翌月から京都で文書発給に携わり始め、2月29日に光秀・村井貞勝・日乗上人連署で文書を発給したものが残っています。4月頃からは木下秀吉(後の豊臣秀吉)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の家臣たちと京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行うようになりました。しかし、信長と義昭の間で意見の食い違いが勃発し衝突。信長が岐阜に戻ってしまいます。

永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ変身しています。
1月26日、公家の山科言継は幕府奉公衆へ年頭の礼にまわっており、その中に光秀も含まれています。この時点で、光秀は幕府直参の奉公衆として扱われていました。
元亀元年(1570年)4月28日、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りにより、危機に陥った際、豊臣秀吉と一緒に殿を務め、見事に撤退戦を成功させます。

元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣しています。徐々に義昭の幕臣から、信長の家臣へと軸足を移していったのです。

織田家の家臣初の城持ち武将に

元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちでは、明智光秀は中心実行部隊として武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、坂本城の築城にとりかかります。この時点で、光秀は織田信長の家臣として扱われていたことが分かります。
12月頃、光秀は義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出しましたが不許可になりました。義昭としては、光秀の才覚に頼っておりとても許可できるものではなかったとも言われています。
元亀4年(1573年)2月、織田信長に対して義昭が挙兵します。光秀は石山城・今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦しました。

7月、再度義昭が槇島城で挙兵しましたが敗北、義昭は降伏後に追放され、室町幕府はこの時点で事実上滅亡したとされています。同年、坂本城が完成し、居城としました。

天正元年(1573年)7月、村井貞勝が京都所司代になりますが、実質は天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出しています。
天正3年(1575年)7月、光秀は惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となりました。この出来事は、光秀が織田氏の重臣層に加えられたことを意味していました。

丹波攻略

天正3年(1575年)、明智光秀は、織田信長より丹波国攻略を任されました。しかし、丹波国は山続きで、その間に国人が割拠して極めて治めにくい地域で苦戦します。また丹波の国人たちは足利義昭派で、義昭追放で敵に転じていました。
まず光秀は、小畠永明・川勝継氏の協力を得て宇津頼重攻めを始めましたが、途中で信長から越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱すると、8月には宇津頼重に織田方の馬路城・余部城を攻められるなど苦戦する。
一旦坂本城に戻った光秀は、10月に改めて丹波攻略を開始、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の黒井城を包囲します。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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