豊臣秀吉(1/2)戦国一の出世頭

豊臣秀吉

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人物記
名前
豊臣秀吉(1537年〜1598年)
出生地
愛知県
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室町時代後期、世の中が荒れ戦国と呼ばれた時代。その戦国時代にあり、裸一貫から身を起こし天下を統一した英雄がいました、豊臣秀吉です。秀吉は織田信長に仕え、武士ともいえない小物から頭角を現し、織田家の有力な武将へとなっていきます。更に信長が悲運のうちに倒れた後、織田家の勢力争いにも勝ち天下を統一していきました。今回は、そんな豊臣秀吉を紹介していきたいと思います。

出生と放浪の日々

豊臣秀吉は天文6年(1537)、尾張国愛知郡中村郷(現在の愛知県名古屋市中村区)に生まれます。出自ははっきりとしていませんが、農民、あるいは下層武士の家に生まれ、幼名を「日吉丸」と言いました。実父を早くに亡くし継父と折り合いが悪く、家を飛び出した日吉丸は行商や野盗を行いながら各地を回ったと言われています。

青年期、秀吉は木下藤吉郎と名乗り、東海道を治めていた今川家家臣、松下加兵衛に仕えましたが、程なくして松下家も出ます。若き日の秀吉はこのように各地を放浪して過ごしました。実際の豊臣秀吉の幼少期に関しては、江戸時代に書かれた『絵本太閤記』や『太閤素性記』に書かれている事が広く伝わり、出生の家や誕生日など詳しい事は正確に伝わっていません。

木下藤吉郎、織田家に仕える

天文23年(1554)、木下藤吉郎17歳ごろ。
尾張国の一部を領していた織田信長に小物(奉公人、召使い)として仕えます。良く働く小物として目立った藤吉郎は、清須城の普請などで頭角を現しました。
この時の逸話として有名なのが、草履取りの話です。信長の草履取りをしていた藤吉郎は冬の日に信長の草履を懐で温め、信長の履くときに出した事で、主人への忠義を知った信長が藤吉郎を取り立てた、というお話です。

永禄7年(1564年)、織田家は美濃国(現在の岐阜県)を攻めました。この時、藤吉郎は斎藤家の家臣を計略により下らせています。降らせた坪内氏への安堵状が「木下藤吉郎秀吉」名義として現存しており、秀吉の名前のある最も古い資料とされます。
また永禄9、10年(1566、67)に、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話があり、美濃国の国人衆であった蜂須賀正勝、前野長康や斎藤家の武将であった竹中半兵衛を配下として組み入れています。こうして木下家として徐々に形を作っていきました。

元亀元年(1570)4月、織田家は越前国(現在の福井県嶺北)へ朝倉家討伐の為に進軍し藤吉郎も従軍します。ところが金ヶ崎まで進んだところで、同盟関係にあった浅井家の裏切りにあい、背後を襲われます(金ヶ崎の退き口)。秀吉は殿軍の一人を務め手柄を挙げました。この後、織田家は近江国北部(現在の滋賀県北部)にあった横山城を奪い、藤吉郎に城代を任せました。

元亀3年(1572)、藤吉郎は織田家重臣であった丹羽長秀、柴田勝家にあやかろうと苗字を羽柴性へと変え、羽柴秀吉と名乗ります。

羽柴秀吉と出世の階段

天正元年(1573)、近江国北部を領していた浅井家が織田家によって滅ぼされると、その領地のうち三郡を羽柴秀吉に与えます。秀吉は今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となりました。
長浜を治めた秀吉は年貢や諸役を免除したため近郊より人が集まり賑わいます。その集まった者の中から旧浅井家家臣や近郊の国人衆を配下へ組み込み、木下家を大きくしていきました。 この後、織田家が行う長篠の戦いや北伊勢の平定、信貴山城の戦いに参戦します。

天正5年(1577)、織田信長は羽柴秀吉に中国地方の攻略を命じました。秀吉は順調に出世していき、この頃には織田家の有力な将として台頭していました。

播磨国攻略以前から親交のあった小寺孝高(黒田官兵衛)を配下に迎え、姫路城を中国地方平定の拠点とし手を付けた秀吉は、播磨国(現在の兵庫県南西部)の国人衆から人質を取る見返りに安堵し、平定していきます。播磨国を押さえた秀吉は、そこから但馬国も攻め始めます。

天正7年(1579)、毛利家との攻防の末、備前国、美作国(現在の岡山県)を支配する宇喜多直家を服属させ順調に進めていきます。ところが、中国地方侵攻の途中で織田家に属していた摂津国の荒木村重が反旗を翻し、一時中断を余儀なくされます。
事態が落ち着いた天正8年(1580)再び中国地方の攻略を進めていき、但馬国も平定しました。

本能寺の変と山崎の戦い

天正10年(1582)、羽柴秀吉は備中国(現在の岡山県西部)へ侵攻します。備中高松城を囲んで水を注ぎこみ水攻めにしました。これに対して中国地方の雄、毛利家も応援を出し、秀吉と毛利家は対峙します。秀吉は主君の織田信長に援軍を要請しました。

織田信長は各地で戦っている兵を中国地方に向かわせ、自らも京まで進みます。
ところが天正10年(1582)6月2日、織田信長は京都の本能寺において、家臣の明智光秀により攻められ自害しました(本能寺の変)。
主君が京で自害した話は秀吉にも届きます。話を聞いた秀吉は毛利家とすぐさま講和、講和した直後、軍を引き払い京へ舞い戻りました。

京都で本能寺の変がおこったのが6月2日、その約10日後の6月13日には山崎において明智光秀と対峙しています。10日で230キロを走破したこの秀吉の進軍は「中国大返し」と呼ばれました。織田信長を討った明智光秀もまた、これ程早く秀吉が戻って来ると考えていません。秀吉と戦った明智光秀は敗れ、光秀は落ち武者狩りにあい亡くなりました。

賤ケ岳の戦い

明智光秀を破った山崎の戦いからおよそ10日後の6月27日、清須城において織田家の今後を話し合う会議が開かれました(清須会議)。
ここで信長の後継を羽柴秀吉が推した孫の三法師(織田信長の嫡男で本能寺の変で亡くなった織田信忠の嫡男)と決まります。
同時にこの会議において、織田家筆頭家老の柴田勝家との確執も決定的なものへとなっていきます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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