大久保忠隣(2/2)徳川家を支え、家康に改易された忠臣
大久保忠隣
大久保長安は大久保忠隣によって重用され、日本全国の金山運営などを行いました。そのため収入と支出を偽り不正な蓄財に手を染めていたのです。
これにより長安の子が切腹。(大久保長安事件)
忠隣の周辺を不穏な空気が包みます。
そして慶長19年(1614)1月19日、大久保忠隣は幕府より改易を申し渡されます。
忠隣は前年の12月19日に京都のキリシタン追放を命じられ、改易前日の1月18日には伴天連寺の破却、信者の強制改宗、改宗拒否者の追放を行っていました。
改易を申し渡された忠隣は、近江の彦根(現在の滋賀県彦根市)を治めていた井伊直孝に預けられます。この時5000石の知行地を与えられました。
忠隣は徳川家康の側近であった天海を通じ弁明書を提出しましたが、ついに許される事はありませんでした。
改易の理由は今もって判然として分かっていません。
旧穴山衆(築城や金山発掘の時に必要となる石工の集団)の浪人であった馬場八左衛門が、忠隣が謀反を企んでいると訴え出たことを理由としている当時の書物があります。
あるいは、慶長16年(1611)に大久保忠隣の長男であった大久保忠常が病で死去。忠隣は意気消沈し、政務を怠ったことで徳川家康の不興を買いました。
また江戸城内で忠隣が派閥を作っているという事で、それを不快に思った徳川秀忠が家臣に忠誠を誓う起請文を提出させています。
他にも、政敵による排斥にかかったなど、今も具体的な理由は分かっていません。
大久保忠隣はその後、出家して渓庵道白と号し、寛永5年(1628)6月27日に75才で死去。亡くなるまで幕府から許される事はありませんでした。
大久保忠隣が治めた小田原城
大久保忠隣が治めていた小田原城は、平安時代末期に小早川家の居館があった場所とされています。
その後、室町時代に大森氏が治めた頃に最初の城郭が完成。
しかし伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から小田原城を奪うと、盛時は小田原城を大幅に拡張します。
北条氏のもと、越後の上杉氏や甲斐の武田氏と争うようになると、対策として永禄9年(1566)から小田原城の大改修を行いました。この改修は豊臣秀吉の小田原の陣で北条家が滅亡するまで、度々行われます。
北条家のもと、小田原城は現在の天守閣を中心に山城を形成、その後の改修で平野部に二の丸、三の丸を造りました。その広さは現在の小田原市市街地を包括する広さだったそうです。
大久保忠世が小田原城に入ると、それだけ広い城郭を必要としなくなったため規模を縮小。その後、大久保忠隣の改易に伴い大久保家は小田原を去りますが、忠隣の孫である大久保忠朝の代から小田原へ復帰。以降、明治時代まで大久保氏が治めます。
小田原城は、寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度、大地震に遭います。
なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなど大きな被害を受けます。
天守が再建されたのは宝永3年(1706年)。この再建された小田原城天守は、明治時代に入り各地の城が明治政府によって解体されるまで存続しました。
大久保忠隣ならびに大久保氏ゆかりの場所
- 大久保神社
- 忠隣の時代に、大久保氏は改易になります。
しかし大久保家の累代における武功が大きかったことから、大久保忠隣の孫の忠職が大名に復帰しました。忠職には跡を継ぐ子がいなかったため、同じく忠隣の孫であった忠朝が忠職の後を継ぎます。忠朝はその後11万3千石で小田原藩主に返り咲きました。
9代忠真は、大阪城代、京都所司代、老中など幕府要職を歴任。
藩政においては二宮尊徳を始め多くの人材を登用、老中でも下級役人を採用するなど、大久保家中興の名君として知られています。
以降、大久保家は15代忠良の時代に行われた廃藩置県まで小田原藩藩主を務めました。
小田原市内の城山にある大久保神社は、明治26年(1893)小田原城天守閣跡に社殿を創建、藩祖である大久保忠世と名君と言われた9代忠真を祀っています。
明治32年(1899)、天守閣にあった社殿を含む敷地が皇室の御用邸として活用される計画が上がりました。その為、それまであった社殿を他に移さなくてはならなくなったため、明治33年(1900)現在の場所に移転されました。 - 大久保忠親幽居跡の石碑
- 大久保忠隣が井伊直孝に預けられ、幽閉されると渓庵道白と号し出家しました。知行地として5000石を与えられていましたが、その後も徳川家康、秀忠から許される事はありませんでした。
滋賀県彦根市には大久保忠隣が幽閉されていた場所に「大久保忠親幽居之跡」の石碑があります。 - 大久保氏発祥の石碑
- 愛知県岡崎市上和田町は、大久保氏が最初に治めた場所です。松平家が三河を治めていた時代、ここには上和田城があり大久保氏の人々は城の周りに住んでいました。そんな大久保家発祥の場所に「大久保一族發跡地」と書かれた石碑があります。
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- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。