大久保忠隣(1/2)徳川家を支え、家康に改易された忠臣
大久保忠隣
戦国時代、小田原を治めていたのは北条氏(鎌倉時代の執権である北条氏と区別するため、後北条氏とも言います)です。しかし、北条氏は豊臣秀吉により滅亡。その後、小田原を任されたのが大久保氏です。
大久保氏は江戸時代初期から明治まで治めましたが、慶長19年(1614)大久保忠隣が改易され一時、小田原から離れています。
小田原は東海道の要衝、江戸から見ると西の入り口です。
そのような重要な地を大久保氏は任されていましたが、一時改易されてしまいます。
では、改易された大久保忠隣とはどのような人物だったのでしょうか。ご紹介していきましょう。
松平氏と大久保氏
大久保氏は三河松平氏(後に徳川幕府を開いた徳川家康を輩出した一族)に古くから仕えた一族。
松平氏に古くから仕えた代表的な家を安祥譜代7家(酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村の7つの家)と言いますが、大久保氏はその1つでした。
もともと大久保氏は、北関東の戦国大名・宇都宮氏の支流と言われています。
のち三河(現在の愛知県東部)に移り住み、宇都宮氏から宇津氏に姓を改名しました。
時代が下り宇津忠俊の時代。
越前からやってきた大窪藤五郎という武芸者がいました。武芸に秀でた藤五郎は忠俊を気に入り、「自分の苗字を残すべきは忠俊しかいない」と言います。
忠俊は主君の松平清康(徳川家康の祖父)に相談したところ、「大窪は大変な勇士だからそれにあやかるために聞き届けるように」言われ姓を宇津氏から大窪氏に変えます。
この時、忠俊の兄弟全員が姓を大窪に変え、この後に大久保と改めました。
大久保氏に姓を変えた兄弟の中に大久保能員がいます。
能員は松平清康、広忠(徳川家康の父)、家康の三代に仕えました。弘治元年(1555)の蟹江城攻めで手柄を挙げ、「蟹江七本槍」の一人に数えられるほどの武将です。
この能員は子沢山で、長男を大久保忠世(蟹江七本槍、徳川十六神将の一人に数えられ、後の小田原藩藩祖)、次男に大久保忠佐(蟹江七本槍、徳川十六神将の一人に数えられ、後に駿河沼津藩藩主)、八男には大久保忠教(江戸幕府に入り旗本になります。『三河物語』の著者。講談では大久保彦左衛門として有名)がいます。
大久保氏は一族を上げて松平家に仕え徳川家康の天下取りに貢献しました。
徳川氏の天下となり江戸時代に入ると、大名や旗本、譜代大名や親藩大名の家臣となります。それほどに、大久保氏は徳川氏と深い繋がりがありました。
大久保忠隣の父、大久保忠世
松平清康の代から松平氏(のちの徳川氏)に仕えた大久保能員の長男が大久保忠世。
忠世は天文元年(1532)、三河国額田郡上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれました。
徳川氏に仕えると蟹江城の攻略や三河一向一揆、三方ヶ原の戦いに参加。
弟の大久保忠教が著した『三河物語』では、三方ヶ原の戦いで敗れた直後に天野康景と武田の陣地に鉄砲で夜襲をかけ混乱させた事から、武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と称賛されています。
また、織田氏と共に戦った長篠の戦では弟の忠佐・成瀬正一、日下部定好とともに活躍し織田信長から「良き膏薬(現在のシップ薬など)のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」と激賞され、家康からは褒美の印としてほら貝を与えられました。
長篠の戦で武田家に勝利したのち、忠世は二股城を任されます。
本能寺の変後、徳川家が甲斐(現在の山梨県)・信濃(現在の長野県)へ勢力を拡大すると、大久保忠世は信濃惣奉行として新たに手に入れた領国の経営を担当。
このころ諸国を放浪していた本多正信が帰参を望んでいたため、徳川家康にとりなして徳川家復帰の手助けをしています。正信は後に家康の参謀として活躍。家康から「友」と言われた人物です。
忠世は家康より10歳以上年上で、初期徳川家を支えた酒井忠次や出奔した石川数正と同じ世代でした。そのため徳川家の家臣団の中でも年長者として、三河武士を統括する役目を負っていたのかもしれません。
しかし天正13年(1585)の第一次上田合戦では、鳥居元忠、平岩親吉とともに参戦し真田昌行に手ひどく敗れました。
天正18年(1590)、関東の北条氏が小田原の戦で豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が関東を与えられます。
家康の関東入封に伴い、秀吉の命令もあって大久保忠世は小田原城に4万5千石を与えられました。小田原は旧北条氏の本拠。戦後の不安定な領国運営を担います。
また西国から関東への入り口でもあるので、信頼できる武将として大久保忠世が任じられたのでした。
忠世は質朴な三河武士の典型なタイプ。領国運営でも質素倹約に励みました。
この時代は乱世で、いつ戦があるか分かりません。戦には莫大なお金が必要。
そこで急な支出に備え、1ヶ月の内7日間、食事を一切摂らない日を設ける「七不
食」(ななくわず)という大掛かりな倹約を実行。小田原城城主になっても続けていたそうです。
大久保忠世は質実剛健な三河武士の典型な人で勇将でしたが、徳川家康に見いだされ身分を引き上げられると行政や政治にも活躍した人物でした。
大久保忠隣の生涯
徳川家の重臣となった大久保忠世の長男が今回の主役、大久保忠隣です。
天文22年(1553)、父と同じく三河国額田郡上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれました。
永禄6年(1563)から徳川家康に仕え、永禄11年(1568)遠江堀川城攻めで初陣を飾ります。この時、敵将を倒して首をあげるという目覚ましい武功を立てました。
ここから父忠世に従い、三河一向一揆、姉川の戦、三方ヶ原の戦と徳川氏の主要な戦いに参加します。
三方ヶ原の戦では、徳川軍が武田軍に敗れ潰走。徳川家康も、命からがら戦場から敗走します。後ろから武田軍が迫り、ほとんどの味方が逃げるのに必死で家康の傍から離れた中、忠隣たちは付き従い無事浜松城まで戻りました。その忠義を家康は評価。奉行職に就きます。
天正10年(1582)本能寺の変が起こった時、徳川家康は堺に滞在していました。この時、大久保忠隣も他の重臣と同じく家康に同行しています。危険を避けるため、家康たちは京都を通らず木津川沿いを通過。兵を連れていなかった家康一行は野盗(山賊など)をうまく躱しながら伊勢を経由して三河に戻りました。
三河に戻った徳川家康は甲斐・信濃を併合し、新たな領国の経営に尽力。
この時、武田家で金山運営に従事していた大久保長安が登用され、忠隣の与力になります。長安は辣腕を発揮し、忠隣から大久保の姓を与えられました。
小牧長久手の戦にも大久保忠隣は従事し、豊臣秀吉の天下になると天正14年(1586)の家康上洛のときに従五位下治部少輔に叙任。豊臣姓を下賜されました。
豊臣家が関東の北条家を討伐した小田原の陣にも忠隣は従軍します。
その後、北条家が滅ぶと徳川家が関東を与えられます。
忠隣は武蔵国羽生(現在の埼玉県羽生市)2万石を拝領し、文禄2年(1593)には家康の嫡男・徳川秀忠付の側近となります。
文禄3年(1594)に父で小田原城主であった大久保忠世が死去すると、その遺領を相続し相模国小田原6万5,000石の領主となりました。
豊臣秀吉が死去し、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦が勃発。
大久保忠隣は、徳川家の主力を率いた徳川秀忠に従い中山道を進みます。進軍中、信濃国上田城に篭城する真田昌幸に対し、攻撃を主張して本多正信らと対立しました。これが関ヶ原の戦において、秀忠が遅参する原因となります。
関ケ原の戦後、江戸幕府2代将軍秀忠のもとで年寄(政権運営を行った老中の前身の役職)の1人となり政権有力者となりました。
大久保忠隣の改易
政権有力者となった大久保忠隣。
しかし、慶長18年(1613)に幕府の許可なく忠隣の養女を山口重政が結婚したとして、重政が改易となっています。
また同年、与力の大久保長安の死後に長安の不正蓄財が発覚。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。