山内一豊(2/2)戦国の出世と内助の功

山内一豊

山内一豊

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人物記
名前
山内一豊(1545年〜1605年)
出生地
愛知県
関連する城・寺・神社
高知城

高知城

現存天守
掛川城

掛川城

長浜城

長浜城

関係する事件

一豊と千代との話で有名なのが、『常山紀談』に載っているお話です。
織田信長が馬揃えを行う事になり、一豊も参加する事になりました。しかし一豊の持ち馬は良くありませんでした。そこで一豊は名馬(鏡栗毛)を欲しましたが、高価で手が出ません。その気持ちを知った千代は、嫁入りの際の持参金(或いはへそくりとも)を化粧箱の下から取り出し、一豊に渡したそうです。一豊はこれにより名馬を買うことが出来、おおいに面目を施しました。

この話が明治にまで伝わり、良妻賢母の代表として高等女学校の教育に取り入れられました。この一豊と千代の話は幾つかの史料に載っていますが、真偽のほどは分かりません。しかし千代は一豊が亡くなった後も長命し、山内家存続に力を尽くした女性であったと伝わっています。

木曽川町黒田城跡と一豊まつり

愛知県一宮市木曽川町は、山内家が城代として治めていた黒田城がありました。
黒田城跡は現在の黒田小学校にあたりますが、この場所は山内一豊が生まれた地でもあります。この一豊のゆかりの地を記念して毎年9月第3週の日曜日「木曽川町 一豊まつり」が行われます。甲冑に身を包んだ山内一豊と千代を中心とした武者行列が練り歩く「戦国時代パレード」がメインのお祭りです。
また黒田小学校の北東側一角に黒田城の城門を再現し、城跡が整備されました。その中には山内一豊をたたえ、銅像が建てられています。

長浜城

天正元年(1573)羽柴秀吉が浅井攻めの功により、織田信長から長浜周辺を拝領したことから長浜城の歴史は始まります。拝領当時は今浜と呼ばれ、織田信長の長の字を頂戴して長浜と改名されました。当時の長浜城は、秀吉により琵琶湖に沿って建てられ、城から直接船で琵琶湖に出入りできる水城でした。

以降、城主が度々かわり天正11年(1583)に山内一豊が城代として入城します。一豊は掛川城に領地替えとなるまでの6年間をこの地で過ごしました。
ところが天正13年(1586)に起こった天正地震により城が全壊、一豊と妻の千代との間にできた一人娘、与祢が亡くなります。唯一の子を亡くした夫婦は悲嘆にくれましたが、たまたま道に捨てられていた男の子を拾い育てました。この男の子は後に臨済宗に出家し、湘南宗化と名乗ります。この湘南宗化の弟子の一人が江戸時代の学者、山崎闇斎でした。

長浜城は大坂の陣後の元和元年(1615)内藤家が摂津高槻に移封された事から、廃城になりました。廃城となった城の資材は彦根城の築城に流用され、彦根城の天秤櫓は長浜城から移したものと伝えられています。また長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと言われます。
残った城の一部は琵琶湖に水没し、琵琶湖湖底遺跡となりました。
現在の天守は1983年に他の城をモデルに復元され、歴史博物館として運営されています。

長浜城のお祭りなど

春 長浜曳山まつり
滋賀県長浜市で長浜八幡宮の春の例祭に合わせ、毎年4月9日から12日までの4日間行われるお祭りです。もともとは旧長浜町内で行われていた祭で、長刀山と他の12基の曳山にある舞台で子供歌舞伎が行われ曳行されます。
京都の祇園祭、高山市の高山祭と並んで「日本三大山車祭」の一つに数えられ重要無形民俗文化財に指定され又、2016年にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。
春 近世城下町ふるさとまつり
豊臣秀吉が初めて城持ち大名となった長浜。長浜城とその城下町は、各地の城下町のモデルとなったとも言われる場所です。その近世城下町のルーツから地域を盛り上げるために始まったお祭りです。祭りでは武将の恰好をして練り歩く武将パレードや歴史に関する講演会などが開かれます。
秋 長浜出世まつり 豊国まつり
長浜市は豊臣秀吉により城下町が築かれ、大きく栄えました。そのため、長浜の人々は秀吉を大きく慕い死後、豊国神社が建ち祀られました。ところが江戸時代になると、神社は取り壊され祀る事を禁じられます。町の人々はそれでも町年寄が中心となり密かに祀り続けました。江戸時代が終わり明治に入ると豊国神社は再建され、今日でも豊臣秀吉ゆかりの地として毎年秋になると祭りを開いています。
長浜出世まつり、豊国まつりでは、賤ケ岳合戦の凱旋を模した武者たちの武者行列や稚児行列や、火縄銃による模擬演武が行われています。

高知城

山内一豊の最後の居城、高知城は高知県高知市にあります。
一豊は関ヶ原の戦いにより慶長6年(1601)、土佐国を与えられます。土佐国はそれまで長曾我部氏により桂浜に近い浦戸城を中心として統治されていました。ところが浦土城を居城とすると城下町を開くには手狭でした。そこで現在の高知城の場所にあった大高坂山城(おおたかさかやまじょう)に新たに城を築くことにします。

こうして一豊の代で着工した城は2代藩主山内忠義の代で完成し後に高知城と名づけられます。高知城は江戸時代を通して山内家が治めた土佐国の藩庁が置かれていました。
高知城の天守閣は3層6階からなり、一豊が治めていた掛川城を模して建てられたと言われています。また現存する日本の天守閣(現存12天守)の1つでもあり、追手門等が現存しています。天守と追手門が現存している城は弘前城・丸亀城・高知城の3ヶ所ときわめて貴重な城でもあります。

山内一豊の治めた高知城

山内一豊とカツオのたたき
山内一豊が土佐国に入国した後のお話です。土佐国ではカツオを刺身で食べる習慣がありましたが、一豊は領民の食中毒を気にかけて、生で食べる事を禁じたそうです。そこで領民はカツオの表面だけをあぶり、刺身ではないと言って食するようになったと言われています。カツオのたたきの起源は諸説ありますが、このお話も機嫌の1つに挙げられています。
山内一豊と千代の像と山内神社
山内一豊が土佐国を治めはじめ、江戸時代を通して山内家により統治されたことから高知市内には山内一豊ゆかりの場所があります。高知市鷹司町には山内一豊と千代、歴代山内家当主を祀った山内神社があります。 また、高知県出身で高村光雲に師事した彫刻家、本山白雲作の山内一豊像が高知城公園内にあります。また馬の手綱を曳く見性院(千代)の像も高知城にあります。

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関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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