石川数正(1/2)天下人の忠臣から裏切り者へ

石川数正

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人物記
名前
石川数正(1534年〜1609年)
出生地
愛知県
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松本城

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関係する事件

室町時代後期、中国の歴史になぞらえて戦国時代とも呼ばれた時代。この時代の終止符を打ったのが徳川家康でした。家康は多くの家来に支えられながら、江戸幕府を興して天下人となります。この家康を若い頃より支えた家臣に石川数正がいました。石川数正は家康の信頼を得て重臣となりましたが後年、家康の下を離れます。今回はこの石川数正と数正が治めた松本城を見ていきたいと思います。

石川数正の生い立ち

天文2年(1533)、石川康正の嫡男として石川数正は三河国に生まれます。数正が生まれた三河国は大部分を松平氏が支配しており、この松平氏から徳川家康は誕生しました。
石川氏は古くから松平氏に仕えていた家で、安祥譜代、あるいは安祥七家(酒井、本多、大久保、阿部、石川、植村、青山)と呼ばれた徳川家康の草創期から支えた家の1つ。 
数正以外の石川家にも、数正の叔父であり徳川家康の従弟にもあたる石川家成(後年、美濃国大垣藩主)などがいました。
 
石川数正の生まれた頃、三河国は東海地方の大大名であった今川家により事実上支配されていました。松平家の当主、松平広忠は子の竹千代(後の徳川家康)を今川家に服従の証として人質に出します。数正も徳川家康に近侍し駿河国で住むようになりました。
徳川家康も数正も駿河国で成長し成人していきます。

こうして駿河国で成長した徳川家康と石川数正でしたが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いが勃発。徳川家康は三河国の武士たちを率いて参戦しましたが、今川家の当主であった今川義元が織田信長に倒されて敗死しました。
この結果、徳川家康は今川家から独立します。ところが、家康の妻と子は今川家に人質にされていました。数正は今川家と交渉し、家康の嫡男・信康と家康の正室・築山殿を取り戻します。またこの直後に起こった、隣国尾張国の織田家との紛争にも活躍するなど頭角を現し家康から信頼を得ます。

徳川家康の忠臣として

永禄5年(1562)、徳川家康は織田信長と清洲同盟を成立させ、政治的な安定を求めました。ところが翌永禄6年(1563)、三河国で一向一揆が勃発し家康に反抗すると、数正の父である康正は浄土真宗であった事から一揆に加担します。
しかし、数正は浄土宗に改宗して家康の側に付きました。石川家は数正の叔父であり家康の従兄妹(家康の母の妹の子)、石川家成が家康の命で取りまとめます。

父である康正が一揆の側に付いたのに対して、家康の側に付いた数正はより信頼を受けて家老に任じられ、酒井忠次や石川家成に次ぐ立場で家康を盛り立てました。
永禄12年(1569)、三河国の内、西三河を統括していた叔父の家成が遠州国の要である掛川城に移ると、代わって石川数正が西三河の旗頭となり、徳川家の西(三河国など)取り纏め役となりました。

徳川家からの出奔

石川数正は徳川家の重臣となりましたが、この間、数々の戦場にも立っています。
元亀元年(1570)織田家、徳川家と浅井家、朝倉家とが戦った姉川の戦い、元亀3年(1572)徳川家と武田家とが戦った三方ヶ原の戦い、天正3年(1575)織田家、徳川家と武田家とが戦った長篠の戦いなどです。

こうして織田家の勢力が拡大していく中で、有力な同盟者であった徳川家の重臣となった石川数正でしたが、天正10年(1582)本能寺の変が起こります。この本能寺の変で織田信長は亡くなりました。
この本能寺の変で織田信長が亡くなった事により台頭したのが羽柴秀吉(後年の豊臣秀吉)です。徳川家康は羽柴秀吉との交渉係に石川数正をあてました。

ところが織田信長の次男、織田信雄が秀吉と争うようになると家康は織田信雄を応援し、羽柴秀吉と争うようになります。こうして天正12年(1584)羽柴秀吉と徳川家康とが争った小牧・長久手の戦いが勃発します。この戦い自体は、徳川家康が終始主導権を握り優位に戦いを進めました。

しかし、小牧・長久手の戦いが膠着していた天正13年(1585)、石川数正は家族や家来を連れて徳川家康の下を去り、羽柴秀吉の下へ移ります。長年仕えてきた徳川家康を裏切り敵対していた羽柴秀吉に寝返った訳です。理由は今もって分かっていませんが、幾つか理由が考えられています。

  • 数正が秀吉と交渉を重ねるうちに秀吉の人柄に惚れ込んで投降したという説。
  • 秀吉から提示された恩賞に丸め込まれたとする説。
  • 数正が秀吉と交渉している内に内通していると徳川家内部で疑われ、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。

など様々ありますが、確たる話は残っていません。
こうして羽柴家に移った石川数正は、秀吉から河内国(現在の大阪府東部)で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えるようになりました。徳川家康もこの後、豊臣秀吉に臣従するようになります。

石川家のその後

天正18年(1590)豊臣秀吉は関東の北条氏を討伐します(小田原征伐)。北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に移封され、それまで徳川家康が統治していた信州、甲州、東海道(現在の静岡県、愛知県東部、長野県、山梨県)を子飼いの家来たちに分け与えます。石川数正は信濃国松本10万石に加増移封されました。
松本に移封された石川数正は、戦いに向いた雄大な城を築城し、城下町の建設に尽力しています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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