小堀正次(2/2)作庭で名を馳せた小堀遠州の父

小堀正次

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人物記
名前
小堀正次(1540年〜1604年)
出生地
滋賀県
関連する城・寺・神社
備中松山城

備中松山城

現存天守
駿府城

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名古屋城

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関係する事件

仁治元年(1240)、秋庭重信が備中国の地頭となり大松山に城を築いたのが、備中松山城の始まりとされます。
江戸時代に入り幕府の直轄地となり小堀正次、政一(遠州)親子が松山城の城番として入った後、池田家、水谷家が支配するようになります。水谷家の2代藩主、水谷勝宗は天守建造など3年にわたる大修築を行い現在の姿となった、と言われています。

江戸時代が終わり近代に入ると明治6年(1873)、廃城令が公布され、日本全国にある城が取り壊されていきました。松山城は新政府によって低価格で商家に売却されましたが、山の上という不便な場所にあることから次第に荒廃していきました。
昭和のはじめの話です。中学校教諭であった信野友春が崩壊寸前の松山城を調査し書籍を刊行します。この書籍を契機に山上の建物が修復の機運が高まり、以降修復が進み現在に至ります。

近年では雲海に浮かぶ城が美しいとして知られ又、真田家の居城のイメージに近いという理由で大河ドラマ『真田丸』のオープニング映像に使用されるなど、山の上にある名城として県民に親しまれています。

備中松山城の名所名物

雲海
兵庫県にある竹田城跡。天空の城としても有名な城跡ですが、備中松山城も時期や条件が合えば雲海に城が浮かぶ幻想的な風景が望めます。その姿は、天空の城とたとえられ見た者を引き付けるそうです。
雲海が発生するのは、前日の日中と、当日の早朝の気温が低い寒暖差が大きい日、具体的には前日の日中が温かく、翌日の早朝は冷え込み放射冷却が起こる日が狙い目です。時期は朝晩の冷え込みが始まる9月の終り頃から4月の頭まで、特に10月下旬から12月上旬が濃い朝霧の発生する可能性が期待されます。また2・3日前に雨が降ると出現率が上がるという説もあります。ただし、当日が雨天の場合だと出現しません。また、備中松山城のある展望台周辺では野生猿(国指定天然記念物)が出没し注意が必要です。遭遇したとしても興奮させないで下さい。また冬季は雪が積もることがありますので、ご注意ください。
ゆべし
備中松山城のある高梁に古くから伝わる郷土の銘菓が、「ゆべし(柚餅子)」です。ゆべしは餅米の中に柚子が練りこんである御菓子で、全国各所に郷土菓子として広まっています。その興りは、平安時代後期の源平合戦の頃にはゆべしは保存食として食されていたといわれています。
高梁のゆべしは、江戸時代のはじめ、小堀遠州が代官を勤めていた時に、備中国で採れる柚子を使い独自の御菓子として作られたのが始まりとされます。1800年代には藩主の板倉勝職が城下から献上されたゆべしを称賛した事から、備中松山(高梁)の郷土菓子として定着していったと言われています。又、江戸時代後期におこった藩の財政悪化に対して、ゆべしを量産して生産する政策がとられるなど城下町でゆべしを作る店が増えていったとされています。

備中たかはし松山踊り(びっちゅうたかはしまつやまおどり)

備中松山城には古くから行われている祭があり、それが歴史を重ねるにつれて現在の「備中たかはし松山踊り」となりました。
「備中たかはし松山踊り」とは、毎年8月14日からの3日間、岡山県高梁市において行われる盆踊りです。岡山県で行われる三大踊り(高梁市の松山踊、真庭市の蒜山地方で行われる大宮踊、笠岡市白石島の白石踊)の一つであり、岡山県におけるもっとも大きな盆踊りです。

松山踊りは大きく分けて3つの踊りで構成されています。
江戸時代に始まり領民を中心に踊られた「地踊り」、武家の若者が中心となり踊られた「仕組踊り」、昭和期に入り高梁の近郊で踊られていた「ヤトサ」の3種類です。

「地踊り」は、櫓を囲んで輪になり反時計周りに行進します。古くは各町内において地踊りを行う際には、地元の音頭取りが各踊り場でそれぞれ唄って音頭を取っていました。
「仕組踊り」は、10人ほどの踊り手が円陣を作って踊る演舞式の踊りで、特別の扮装を凝らし歴史上の事柄などを取り上げて演目を踊ります。
「ヤトサ」は地踊りと同様に櫓を囲んで輪になりますが、時計回りに進みながら踊り(地踊りが反時計方向のため逆方向)、地踊りと同じように櫓の上に音頭取り、和太鼓、三味線それに加えて鉦が入り踊りを盛り上げます。

地踊りは、慶安元年(1648)藩主の水谷勝隆が領民の豊穣と繁栄を願い八幡神社(和田町)の秋祭りにおいて踊らせた事を起源としています。そこから城下町の発展とともに踊り場を城下に移し、いつしか盂蘭盆会行事と重なり、盆踊りとして行われるようになりました。ところが備中松山藩は度々転封により藩主が変わり、移って来る武士は以前に住んでいた言葉を、領民は備中訛りの言葉を使用していた事から武士と領民との間には交流がありませんでした。

そこで武士は領民が行う地踊りとは別に、藩士の青年団体が中心となって、踊りを行うようになったのが仕組踊りの始まりです。
時代が明治になると、地踊りも仕組踊りも市民の間で踊られるようになります。これに昭和期に入ると、高梁市の周辺で踊られていたヤトサが伝わり踊られるようになったと言われています。

こうして現在では備中たかはし松山踊りの中で3つの踊りをそれぞれ町の中で踊る習慣ができ、備中高松城のある高梁市では、夏を彩る風物詩として毎年10万人が訪れる盆踊りとして楽しまれています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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