池田忠継(2/2)若くして逝った惜しまれる死

池田忠継

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人物記
名前
池田忠継(1599年〜1615年)
出生地
京都府
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岡山城

岡山城

姫路城

姫路城

国宝天守

大坂冬の陣では、岡山藩の持ち場は特に厳しい寒さが陣を襲い、家臣たちも寒さに震えあがっていたと言います。そこに、まだ当時16歳だった藩主である池田忠継が見回りに現れます。寒さに震えていたその者に対し、「これは他の者には内緒にしておけ」と言いながら手ずからそっと、小さい手樽に入った酒と、暖かい綿入れの肌着を渡してくれました。

話をした子の家臣は「このことは今でも忘れる事ができないことだ」と思いつつも、内緒にしておけと言われた手前、ずっと話せなかったと明かしたと言います。

この話を聞いて集まっている家臣たちが口々に「我らにも、その通りのことがあった」と申告しあい驚いたとか。若き君主の心遣いに家臣一同、しみじみと感動したと伝わっています。
この話は、既に忠継が亡くなった後思い出語りとして家臣たちが忠継を偲んで出てきた逸話だと言われています。忠継の数少ない人物像を伝える話だと言えます。

忠継が育った姫路城

姫路城天守が置かれている「姫山」は古くは「日女路(ひめじ)の丘」と称していました。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名を見ることができます。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存しており、国宝や重要文化財に指定されています。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡にも指定されており、ユネスコの世界遺産リストにも登録されました。
日本100名城などに選定されている姫路城は、別名を白鷺城(はくろじょう/しらさぎじょう)とも呼ばれ、真っ白な外観は遠目からでもわかるほどです。

池田輝政は、1601年(慶長6)から8年かけて大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築きあげます。
中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ計画を立てていましたが輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わっています。
運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現されています。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛が務め、作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人~ 5千万人ほどであったと推測されているほど大規模なものでした。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)・赤穂城・三木城・利神城・龍野城・高砂城も整備されました。

現在、桜の季節には昼間のイベントをはじめ姫路城夜桜会などが行われるほか、4月下旬には千姫ぼたん祭り、8月には姫路お城祭りなど1年を通してたくさんのイベントが行われています。国内外からもたくさんの観光客が訪れ、観光地として名高いものとなっています。

忠継が治めた岡山城

慶長8年(1603)、備前28万石は池田輝政の次男である忠継に与えられます。しかし5歳では治められないため兄の利隆が「備前監国」として代わりに政務を執りました。
利隆は「石山」の西端の西之丸を整備したと言われています。慶長18年(1613)に忠継は岡山城に入ったが、わずか2年後の慶長20年(1615)に死去してしまいました。
その後の岡山城は、元和元年(1615)、忠継の弟である忠雄が淡路より31万5千石で入封します。

幕府の格式に見合った城にするために、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張、本段の御殿に加え新たに表書院も設けています。また大手の南門を造り替えて、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど、岡山城の縄張りが完成しました。
重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされていて、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てとなっています。城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見えることも特徴です。

江戸期の縄張は「岡山」に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、「石山」付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれ、南に二之丸、その西南に三之曲輪、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内があったと言われています。
寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲が因幡鳥取へ転封すると、入れ代わりで因幡鳥取から池田光政が31万5千石で入封します。光政は利隆の子であり、姫路城で生まれていますが、父の死後元和元年(1615)に鳥取城主となっていました。以後、幕末まで池田氏の居城として受け継がれていきます。

現在は、漆黒の城として白い姫路城と対を成すかのような趣となっています。近くには後楽園があり、後楽園と岡山城を一緒に回るルートは観光ルートとして認知されているほどです。
烏城夏まつりや秋のおかやま桃太郎まつりが執り行われ、多くの観光客や市民が訪れるイベントとして親しまれています。

忠継の墓所

墓所(廟)は岡山市の清泰院にあります。木像と位牌が安置されており、遺体は廟の下に埋葬されており、なんと木棺の中に胡座姿で遺体を納めたと言われています。
当初、清泰院は岡山県岡山市中区小橋にありましたが、1964年(昭和39)に国道橋建設の関係で岡山市南区浦安本町に移転しています。
清泰院の移転に伴い、廟も1978年(昭和53)に同じ場所へ移転しています。現在、岡山県指定重要文化財に指定されており、現在も手厚く葬られています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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