池田忠継(1/2)若くして逝った惜しまれる死

池田忠継

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人物記
名前
池田忠継(1599年〜1615年)
出生地
京都府
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戦国時代から江戸時代にかけて、多くの有能な武将が現れ、消えていきました。その中でも、池田家は織田信長に仕えた池田恒興、豊臣秀吉と徳川家康に仕えた池田輝政と続いてきました。その後、今回紹介する池田忠継に引き継がれ、幕末まで続く大名として栄えました。では、その池田家はどのように家を維持してきたのでしょう。今回は、池田恒興の孫にあたる池田忠継の生涯を取り上げます。

偉大な祖父 池田恒興

池田家がその名を世に知らしめるようになってくるきっかけは、池田恒興でした。
織田信長の乳兄弟・小姓として幼いころから信長に仕えていた恒興は、信長が尾張統一・美濃国奪取と有力な戦国大名になっていく中で仕え、重臣として力を発揮していきます。

織田信長が戦った主な戦には常に付き従い、信長の家臣の中でも存在感を高めていきます。信長に反旗を翻した荒木村重が立て籠もる摂津花隈城を攻め落とし(花隈城の戦い)、その旧領を治めるようになりました。

本能寺の変で織田信長が重臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから戻って来た羽柴秀吉(豊臣秀吉)と合流、山崎の戦いでは右翼先鋒を務めて光秀を撃破、織田家の宿老に列することになります。続く清洲会議でも、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立、領地の再分配では摂津国のうち大坂・尼崎・兵庫に12万石を領有するなど、以後の池田家の地盤を築きます。

続く父 池田輝政の功績

祖父の池田恒興の後を継いだ、父の池田輝政。
輝政は織田信長が本能寺の変で斃れた天正10年(1582)2月、兄と共に甲州征伐への出陣や、豊臣秀吉と明智光秀が激突した山崎の戦いなどに従軍し、信長の家臣から秀吉の家臣へと父の恒興がうまく移り変わっていったことで、より池田家は安定していきます。

池尻城(岐阜県大垣市)や岐阜城主となり、秀吉の天下統一に関わる重要な戦に付き従いました。その後、吉田城(愛知県豊橋市)の城主となります。
豊臣秀吉の甥で関白だった豊臣秀次が失脚した際も、秀次の妻妾の多くが処刑されたにもかかわらず、輝政の妹であった若政所(秀次の正室)だけは例外的に助命されるなど、秀吉からも特別丁重に扱われていました。豊臣一族に次ぐ扱いで厚遇されていたのです。

次なる危機は、豊臣秀吉の死後に訪れます。
秀吉の死後、徳川家康と秀吉の遺児である幼い秀頼を担ぐ石田三成らとの対立が深まり、やがて関ヶ原の戦いへとつながっていきました。
家康率いる東軍と、三成たちの西軍どちらに与するかで戦後の運命は大きく変わってしまいます。輝政は家康に近づき、福島正則や加藤清正ら武断派の諸将らと共に行動することが増えました。結果的に東軍に与して、播磨姫路52万石を得て姫路藩初代藩主となり、さらに池田家を安定させました。

池田忠継の誕生から岡山城入城と若すぎた死

池田忠継は慶長4年(1599)2月18日、伏見で生まれます。父は池田輝政、母は徳川家康の次女である督姫でした。幼名は藤松。忠継は徳川家康の外孫にあたることもあって、岡山藩を治めていた小早川秀秋が無嗣断絶により改易された後釜として、慶長8年(1603)にわずか5歳で備前岡山28万石に封じられました。

しかし、まだ幼い忠継には当然政務をおこなうことは不可能です。代わりに、異母兄である池田利隆が執政を代行するために岡山城に入って、忠継は引き続き父のいる姫路城に留まって成長していきました。
そのまま姫路城で成長し、父・輝政が亡くなると16歳で備前岡山藩主として岡山城へ入城しました。父の遺領から、母・良正院の化粧料の西播磨10万石を分与されて計38万石を治める大名として、政務を執ることになりました。

その後、兄の利隆と一緒に大坂冬の陣では徳川方として参陣します。
しかし、岡山城へ帰城後に発病し、翌慶長20年(1615)に岡山城で死去しました。享年17。ことのき、森忠政の娘と婚約していたが婚姻前に亡くなったため嗣子がおらず、跡を同母弟の忠雄が継ぎました。子孫は、忠雄の嫡男・光仲の時代に因幡鳥取藩に転封となってそのまま幕末まで続いて現在も子孫が存続しています。

忠継と毒まんじゅう

池田忠継の若すぎた死は惜しまれており、毒まんじゅうの伝説が残っています。

忠継の母である督姫(徳川家康の次女)が、実子である忠継を姫路城主にするために継子で姫路城主であった利隆の暗殺を企てます。
岡山城内で利隆が忠継に対面した折、督姫はまんじゅうに毒を盛って利隆に勧めようとしました。しかし、とっさに女中が手のひらに「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけずに事なきを得ました。
しかし、この毒まんじゅうに気づいた忠継が、代わりに利隆の毒入りまんじゅうを奪い取って食べてしまい、結果的に若くして亡くなったと言う伝説があります。
身を挺して長兄・正嫡の利隆を守ったと言われています。この結末に、督姫も毒まんじゅうを食べさせようとしたことを恥じ入り、自らも毒入りの饅頭を食べて死亡したとも言われています。

しかし、史実では忠継が亡くなったのは、先程の通り慶長20年(1615)2月23日に岡山城内で死去しています。母の督姫も慶長20年(1615)2月4日に京都の二条城で死去して、京都・知恩院に埋葬されているためこの伝説はつじつまが合いません。
戦後、1978年(昭和53)に忠継廟の移転の際、発掘調査が行われました。その際に毒死疑惑検証のため遺体の調査が行われていますが、その結果でも毒死の証拠は得られなかったとされています。

忠継と大坂冬の陣

忠継の家臣たちが、大阪の陣が終わってしばらくたった頃岡山城内で集まり、大坂冬の陣の戦の思い出話をしていました。
集まっていた家臣のひとりが、そのうちの一人が「これは今まで誰にも言っていないことなのだが」と前置きして話を始めたそうです。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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